第79回世界保健総会(WHA79)期間中に、グローバルヘルスに関わるさまざまな関係機関による会合への参加やリーダーとの面談を通じて強く印象付けられたのは、グローバルヘルスのアーキテクチャそのものが更新され始めている点である。とりわけ、気候と健康をめぐる議論の深化、財源制約下でのサステナブル・ファイナンスの再設計、そしてAI for Healthをめぐる期待と倫理・ガバナンスに関する懸念への対応は、独立したアジェンダではなく、それぞれ相互に深く関係しているものであることを再確認した。この点、従来からグローバルヘルスに関わる政策合意と国際調整のハブであるWHAという場は、「地球環境」、「ファイナンス」、「AI」の3つの異なる領域の横断的な検討がなされる特色があることから、現地での議論を通して明確な感触を得た。
本レポートは、この3つの視点から著者の私見を整理し、各トピックの要点と相互連関性を描く。あわせて、新たな“Global Health Architecture”の方向性を模索したい。
Climate & Health/Planetary Health:
気候変動を含む地球環境の変化が人類の健康に及ぼす影響は多層的である。熱波や洪水、干ばつ、森林火災といった極端現象の頻発は、直接的な死亡・罹患などの健康被害をもたらすだけでなく、食料・水・居住環境といった社会的決定要因を通じて健康格差を増幅させたり、感染症の空間的分布や季節性にも影響する。WHOも気候変動が人の健康に対する根源的脅威であることを繰り返し訴えている。
このようなClimate & Health/Planetary Healthの認識が深まりつつあるなか、医療界・ヘルスケア産業は命や健康を守る側であると同時に、サプライチェーンを含む環境負荷を発生させる主体の1つでもあることに注目が高まってきている。医療セクターのGHG排出が世界全体の一定割合を占め、特にサプライチェーン(Scope3)由来が大きいとされることは、医療界・ヘルスケア産業が環境負荷への責任を“自分ごと”として引き受ける必要を突き付けている。
他方で、市民・コミュニティなどがこのようなClimate & Health/Planetary Healthの文脈で、国や企業を相手取った訴訟を起こし、実際に原告側が勝訴する例もみられる。
このような流れに呼応するように、WHA79のタイミングで公表された「The Lancet MedZero(以下、「MedZero」)」は、医療セクターの脱炭素の議論を「理念」から「実装」へと引き寄せる極めて重要な取り組みとして映った。MedZeroは、医薬品、医療機器、検査機器、衛生製品など、医療で日常的に用いられる多様なプロダクトやプロシージャについて、カーボンデータを横断的に参照・比較できるPublic Goods型プラットフォームを目指している。足元のローンチ時点では、14,000超のモダリティが掲載されている。これまで医療現場が直面してきた課題は、脱炭素・低炭素を求められながらも、比較可能で信頼できる粒度のデータが圧倒的に不足していた点にあった。MedZeroは、この「データ欠損」を埋め、意思決定を可能にする共通基盤の提供を狙うポテンシャルがある。
MedZeroがもたらし得るインパクトは、単に環境情報の可視化にとどまらない。
第1に、医療機関による製品調達の判断に変化が起こる可能性がある。価格や品質、供給安定性に加えて、環境負荷が“比較可能な指標”として入り込み、調達・廃棄・物流・再利用といったライフサイクルを通じた環境負荷の最適化をデータに基づき議論することが可能になる。
第2に、企業価値の評価軸が多次元化する可能性がある。ヘルスケア産業各社の価値が財務だけでなく、環境的側面から現状とは比べ物にならぬほど多角的に評価される方向へと進むなら、製品の環境負荷に関する設計、研究開発、サプライチェーン、情報開示は、コスト要因ではなく競争戦略の中核にならざるを得なくなる。
第3に、医療セクターの環境負荷に関する可視化が成立する可能性がある。今後、この試みが大きく前進した場合-そこにたどり着くには途方もないリソースの投入が必要になる可能性があるが、それが故に-国際的な標準化を目指した合意形成を図っていくことも想定し得る。その歩みの第1歩として、MedZeroは業界をリードするグローバル・イニシアチブになり得る。
Sustainable Health Finance:
資金的構造の変化と「共通言語」確立への期待
WHA79でのもう1つの強い潮流は、グローバルヘルスの資金的な構造に大きな変化が起こりつつあること、また、それに呼応するように新たな資金メカニズムへの要求が一段と高まっていることである。2026年に入り、米国がWHOからの脱退を完了したことが米国政府から公表され、WHO側も通知を受けたことを明らかにしている。最大拠出国の1つが距離を置く状況は、WHOのみならず、グローバルヘルスの協調的なメカニズム全体に緊張をもたらし得る。同時に、ODA(政府開発援助)の減少傾向は、暫定値ベースでより明確になっている。OECDの公表データによれば、DAC加盟国のODAは2024年に実質で減少し、2025年には過去最大級の落ち込みとなることも報告されている。このような変化のもとで、グローバルサウス、とりわけアフリカでは、リージョナルな機構を軸に現地での研究体制・製品製造能力の強化と共同調達メカニズムの確立に向けた議論が進められている。Africa CDCが主導する African Pooled Procurement Mechanism(APPM)が、2024年2月のAU(African Union)会合で承認された。APPMでは、国を超えて製品需要を束ねることで価格交渉力を高め、供給の予見可能性を上げ、現地製造をさらに後押しする構想が掲げられている。医薬品・ワクチン・診断機器等の調達を国別の「断片的市場」から「広域的市場」へと変換しようとする意図がある。この方向性は、今後のHealth Sovereigntyの議論にも直結していくと考えられる。
こうした地域的な自立化の動きと並行して、グローバル大での民間資金のさらなる動員により大きな期待が寄せられている。しかしながら、民間資金を動員するには、投資家・金融機関・企業・政府・国際機関・市民団体などが同じ言葉で語られる必要がある。そこで登場するのが、G20Health & Development Partnershipなどが提唱する ヘルス・タクソノミー(Health Taxonomy) という考え方であり、ツールである。このようなツールにより、健康への投資を単なる社会支出ではなく、経済安定や生産性向上、雇用拡大などの長期リターンにつながる「戦略的投資」として再定義し、共通言語を通じて投資判断を前進させる。また、投資促進の一方で“health washing”を回避し、透明性と比較可能性を確保することも論点として前面に押し出している。
さらに、MDBs(多国間開発金融機関)においても、WHOと連携した Health Impact Investment Platform(HIIP) が、LMICs(低中所得国)のプライマリ・ヘルスケア投資を後押しする枠組みとして動いている。HIIPは、技術支援を通じて各国の保健医療政策関連の投資計画を整え、投資パイプラインを形成し、MDBsの資金・知見と結びつけることで、より大きな投資を引き出す“触媒”になることを狙っている。これは、従来の助成中心の議論から、投資計画と資金供給をリンクさせる狙いを象徴するものである。
重要なのは、これらの動きが前章のMedZeroのような試みと連動し得るという点である。MedZeroのようなプラットフォームが整うほど、投資や調達の意思決定が「比較可能なデータ」によって支えられ、Health Taxonomyが目指す“共通言語”化がより確かな具体性を伴ったものになり得る。つまり、環境負荷を含むインパクトを測る動きと、資金の流れを変える動きが、加速度的に結びついていく可能性がある。
AI for Health:
革新的な技術への期待と懸念の高まり
AI for Healthは、上記のサステナブル・ファイナンス文脈においても「イノベーション投資」の中核テーマとして期待が高まっている。診断精度の向上、医療資源の最適配分、創薬、サーベイランスといった領域で、AIがもたらし得る便益は大きい。しかし、WHA79周辺の議論で特徴的だったのは、AIの“きらびやかな成果”と同じ強度で、「倫理」、「公平性」、「説明責任」、さらに前提となるインフラや人材を含む現場の実装能力が議論されていたことである。このような議論はグローバルノースでもグローバルサウスでも類似する側面がある。
LMICsは、ともするとHICs(高所得国)で開発された医療AIの試験場になりかねない、そのような「批判」が、AI倫理に関わる懸念の1つとして語られることがある。AI for Healthについて考える時、データの代表性が異なればモデル性能は劣化し得るし、誤診や不適切な判断支援につながる可能性がある。また、個人情報保護に関する制度や運用が十分でない場合、データの二次利用や越境移転の問題が顕在化し得る。加えて、デジタルインフラが整備途上で、導入に合わせた医療従事者・住民のデジタルリテラシー支援が不足していれば、“導入したが使いこなせない”という実装上の問題が露見し得る。文化的背景や言語、医療アクセス構造の違いへの配慮が薄いソリューションは、現場で受け入れられず、結果的に、健康格差をむしろ拡大させる可能性すらある。
WHOはこうした問題意識のもと、AI for Healthの倫理・ガバナンスに関するガイダンスを示し、AIの設計・開発・導入・運用の全ての段階で倫理と人権を中核に据える必要性を明確にしている1。同ガイダンスが提示する6原則(自律性の保護、公益と安全、説明可能性、透明性、説明責任、公平性、持続可能性等)は、AI for Healthの社会実装を進めるうえで極めて肝要である。WHA79のサイドイベントとして開催されたGeneva Digital Health Day 2026では、「Responsible AI and the Future of Health: Promise vs. Reality」というテーマが掲げられ、ヘルスケア領域におけるAIの活用事例を多数紹介しながら、社会的インパクト、そして安全で倫理的なエビデンスに基づく導入の在り方が議論の中心に据えられていた。これは、AI for Healthが成果を強調するだけでは前進しないこと、すなわち「守り」の設計についてしっかりとした検討がなされなければ、信頼を失い、投資も、政策も続かないという共通認識が形成されつつあることを示唆している。
3つのアジェンダが織りなす新たな
“Global Health Architecture”
以上を踏まえると、WHA79で見えた3つのトピックは、互いに結び付くことで、グローバルヘルスの意思決定を構造的に変えようとしている。MedZeroを象徴とするプラットフォームは、医療セクターの脱炭素・低炭素を定量比較可能な世界を可能にし、調達ひいては臨床の選択を変える。G20HDPのHealth TaxonomyやHIIPに代表されるHealth×Financeの「共通言語」と「投資枠組み」は、限られた公的資金を補完する民間資金やMDBによる資金を、健康に資する方向へ誘導する。WHOのAIガイダンスやResponsible AI議論に象徴される「実装」と「倫理」のバランスは、技術導入を持続させるための信頼と説明責任を担保し、さらなる健康投資への期待を高める。これらが連鎖することで、健康-環境-資金-技術が分断されず接続され、より大きな推進力を秘めた新たな“Global Health Architecture”として立ち上がり始めている。
おわりに
本稿で扱った視点は、日本国内にとっても有益な議論につながるものである。医療関連の製品調達における評価軸の変化は、病院経営や産業界の競争力に直結する。環境負荷情報の可視化・標準化と比較可能性が進めば、製薬・医療機器メーカーは、製品の環境情報と医療価値を統合した提案が求められる。投資の世界では、サステナブル・ファイナンスの議論の中で医療セクターへの投資に対する新たな価値が見出され、国際的な共通言語との整合が問い質される。AIについては、国内実装であっても、今後より多様なモダリティにAI for Healthが広がる方向にあることは間違いなく、倫理・公平性・説明責任の要請も同時に強まっていく。言わずもがな、国内市場が縮小していく領域も少なくないなかで、グローバル展開を見据えた国際的な検討についてはしっかりと押さえることが前提になる。
以上のとおり、Climate & Health/Planetary Health、Sustainable Health Finance、AI for Healthの3つの領域は相互に関連し合いながら、これからの新たな“Global Health Architecture”を形成していくというのが、KPMGジャパンヘルスケア&ウェルビーイングチームの見解である。このような大きなトレンドのなかで、政策、産業、金融・投資、医療などの多様なステークホルダーによるプロジェクトを支援し、適切な形で連携していくことをお手伝いしてまいりたい。
1 WHO. Ethics and governance of artificial intelligence for health. 2021. Available at https://iris.who.int/server/api/core/bitstreams/f780d926-4ae3-42ce-a6d6-e898a5562621/content accessed on the 25th April, 2026
執筆者
あずさ監査法人
ディレクター 小柴 巌和