1.パラダイムシフトの本質
生成AIの急速な発展は、国際関係の力学を根本から変革しつつあります。革新的なツールの登場は、単なる技術革新を超えて、国家安全保障、経済戦略、そして国際関係の本質的な変容をもたらしています。この変革を理解するためには、まず私たち自身の認識の枠組みを問い直す必要があります。
従来の地政学的分析が前提としてきた物理的な力(領土、天然資源、軍事力)の概念は、デジタル時代においてその有効性を部分的に失いつつあります。代わって台頭しているのは、データ、アルゴリズム、計算能力という非物理的な要素です。この変化は、国家間の力関係の性質自体を根本から変容させています。
2.新しい国家競争力の定義
デジタル主権の概念
特に注目すべきは、「デジタル主権」という新しい概念です。データは物理的な資源とは異なり、同時に複数の場所に存在でき、その価値は組み合わせや文脈に大きく依存します。例えば、個々のデータポイントは限られた価値しか持たないかもしれませんが、大規模なデータセットとして組み合わされ、高度なアルゴリズムで分析されることで、予測や意思決定に重要な価値をもたらします。
集合知としての国力
国家の競争力は、もはや個別の技術力だけでなく、政府、企業、市民社会が一体となってAIを効果的に活用できる社会システムの構築能力に大きく依存するようになっています。この観点から見ると、単なる技術開発競争を超えた、より包括的な社会システムの競争が展開されているといえます。
3.主要国の対応と規制動向
米中技術覇権競争
米国は2024年のAIに関する対中投資規制や2025年のAI向け半導体の輸出規制強化など、より包括的な規制を実施しようとしています。特に注目すべきは、2024年10月に発表された『AIの開発や利用に関する国家安全保障覚書(NSM)』であり、米国によるAI開発の主導、国家安全保障におけるAI利用推進、AIに関する国際的なコンセンサスとガバナンスの推進という明確な方針が示されており、国家としてAI開発を非常に重視していることがわかります。
一方、中国はゲルマニウムやガリウムといった重要鉱物の管理で対抗し、「中国製造2025」計画の下で技術的自立への投資を加速させています。
近年のAI関連における各国の規制アプローチ
米国:イノベーション重視型アプローチ
米国は2020年の「国家AI推進法」や2022年の「AI権利章典のための青写真」、2023年の大統領令による事前安全評価や市場への影響調査等の義務付けなど、比較的緩やかな規制と自主的な基準設定を重視しています。特にNIST(米国国立標準技術研究所)が策定するAIリスクマネジメントフレームワークなど、業界の自主的な取り組みを奨励する姿勢が特徴的です。これは、AIがもたらすリスクよりも開発を優先させた姿であると考えられます。
中国:管理統制型アプローチ
中国は国家によるガバナンスを強めた、より厳格な規制枠組みを確立しています。2022年3月に施行された「インターネット情報サービスアルゴリズム推奨管理規定」は、特にコンテンツ管理と社会主義価値観の尊重を強調しており、企業に対して相応のコンプライアンス負担を課しています。さらに、『国家標準化発展要綱』として知られる「中国標準2035」の下で、『国家人工知能(AI)産業総合標準化システム構築ガイドライン』を発表し、軍民融合を通じた標準化への取り組みを強化しています。
EU:倫理重視型アプローチ
EUは倫理的な観点を重視した「第三の道」を模索しており、AI法やデジタルサービス法(DSA)を通じて包括的な規制の枠組み作りを進めています。特に注目すべきは、新興のソフトウェアに対する規制や調査の動きです。ある国ではプライバシー懸念から利用制限を実施し、別の国では制限付きAIチップの使用に関する調査を進めるなど、一部のAIアプリケーションに対して警戒感を示す動きも見られます。
日本:ガイドライン型アプローチ
日本においても、経済産業省が2024年4月に『AI事業者ガイドライン』を発表し、AIの開発・利用に関する指針を示しています。これは米国の開発重視のアプローチと、EUの倫理観重視のアプローチの両者のバランスを取って、産業界にも利用者にも良い結果を調和してもたらそうという考え方です。また、ガイドラインという形であり、法的拘束力がないことも特徴であると言えます。
4.軍事・安全保障への影響
米国のAI軍事応用
米国防総省はAI Rapid Capabilities Cell(AI RCC)を通じて、大規模言語モデル(LLM)の軍事応用を推進しています。特に統合全領域指揮統制(JADC2)戦闘構造の強化において重要な成果を上げており、次世代の軍事能力の中核として位置づけています。
中国の軍事近代化
中国は2035年までの国防近代化完遂を目指し、人民解放軍の近代化においてAIを重視しています。大規模な戦争シミュレーションのためのAI軍司令官の開発など、革新的な取り組みを進めています。また、軍民融合戦略の下で、民間のAI技術の軍事転用も積極的に推進しています。
ウクライナ紛争での実践例
ウクライナ紛争は、生成AIの実戦での活用を示す重要な事例となっています。自律型無人機による作戦遂行や、顔認証アルゴリズムを使用した戦争犯罪の加害者特定など、AIの実践的な活用が見られ、これらの技術は戦争の性質を根本的に変えつつあると評価されています。
日本の防衛分野での取り組み
日本でも防衛省がAI活用推進基本方針とサイバー人材総合戦略を策定し、防衛分野におけるAI活用を積極的に推進する姿勢を示しています。
5.直面する課題
社会的課題
生成AI時代の重要な課題の一つは、技術格差の拡大です。私たちは技術革新のスピードと規制のバランス、国際協調と国家主権の調和、デジタル空間における「力」の再定義など、多くの課題に直面しています。さらに、偽・誤情報の拡散、差別・偏見の助長といった倫理的リスク、サイバー犯罪の容易化、著作権を巡る問題など、新たな社会的課題も顕在化しています。米国のグローバルサウス支援策や中国の一帯一路構想は、この課題への異なるアプローチを示していますが、効果的な解決策の確立にはまだ時間を要するでしょう。
倫理的課題
軍事利用を含むAI技術の展開には重大な倫理的課題が伴います。意思決定の説明責任と透明性、人間の判断の役割維持、アルゴリズムのバイアス問題、システムの安全性と信頼性、プライバシーとデータ保護など、多くの課題が存在します。これらの課題に対する国際的な合意形成は、まだ初期段階にあります。
6.企業の対応戦略
上記のように、新たな地政学の要素として、AI、デジタル分野における国家間の競争やアプローチの違いがあります。企業は、各地域における規制の違いについて情報収集、理解し、AI開発やその利用、バリューチェーンへの反映に留意すべきであると考えられます。また、主な観点として下記4つの点を留意する必要があるでしょう。
ガバナンス体制の構築:企業は技術部門だけでなく、法務、倫理、人事、政策渉外など多様な専門性を持つメンバーからなるクロスファンクショナルなAIガバナンス体制を構築する必要があります。この体制では、地域ごとに異なる規制環境に柔軟に対応できる意思決定プロセスを確立し、定期的なリスク評価と対応策の見直しを行うことが重要です。
データガバナンス:データの収集、保管、利用に関する地域別の方針を策定し、プライバシーとセキュリティを考慮したデータガバナンスを確立することが必要です。特に、国際的なデータ移転に関する法的リスクを適切に管理する体制の構築は、グローバルに事業を展開する企業にとって重要な課題となっています。
パートナーシップ戦略:企業は技術標準化団体への積極的な参画や、新興国企業との協力関係構築、研究機関や大学との共同研究プログラムの展開など、グローバル・パートナーシップを戦略的に構築していく必要があります。このような協力関係は、技術革新の加速だけでなく、国際的な信頼関係の構築にも寄与します。
人材・組織開発:AI倫理とガバナンスに関する全社的な教育プログラムの実施や、技術者と非技術者の協働を促進する組織文化の醸成が必要です。特に経営層の地政学的リスクに対する感度を向上させることは、戦略的な意思決定を行う上で不可欠となっています。
7.結論
生成AI時代における地政学的変容は、単なる技術革新の結果ではなく、人類の組織化の方法自体の根本的な変化を示唆しており、今日の選択が、将来の国際関係や国家間のパワーバランスを大きく左右する可能性があります。
企業は地政学的視点を持ちながら、具体的なアクションを通じて、生成AI時代の複雑な課題に体系的に対応し、持続可能な成長を実現することが求められます。重要なのは、これらの取り組みを個別の施策としてではなく、包括的な戦略の一部として位置づけ、継続的に改善していくことです。
執筆者
KPMGアドバイザリーライトハウス
デジタルインテリジェンスインスティテュート
齊藤 弓 / コンサルタント
監修者
KPMGコンサルティング
サステナビリティ&リスクトランスフォーメーション
新堀 光城 / アソシエイト・パートナー
KPMGアドバイザリーライトハウス
デジタルインテリジェンスインスティテュート リード
佐藤 昌平 / マネージャー