企業の持続的成長に人的資本経営が不可欠となっているなか、組織の生産性を高める手段の1つとしてVR技術が注目を集めています。人材育成の効率化・労働時間の削減にとどまらず、オペレーションなどの課題解決、企業価値向上に資する可能性が高いこのVR技術を、日本企業はいかに活用していくべきでしょうか。
VRによる人材育成の現状
近年、バーチャルリアリティ(以下、「VR」という)を人材育成に活用するというビジネストランスフォーメーションの大きなトレンドが形成されつつあります。もっとも、VR技術を活用したトレーニング自体は必ずしも新しいものではありません。ヘッドマウントディスプレイ(HMD)を用いて視覚的な仮想世界を提供し、ユーザーに現実と区別がつかないほどの没入感を与えるこの技術は、1960年代には初期の装置が開発され、現代のVRにつながる礎が築かれました。1970年代には航空宇宙業界1や軍事戦闘機2におけるパイロットのトレーニングに導入されています。
その後、何度かのブームの浮き沈みを経ましたが、2010年代に入ると技術の進展によりVRは再び熱い注目を集めるようになりました。コンシューマ向けの価格帯でありながら、高解像度のディスプレイや正確なモーションセンサーの開発により、より没入感のある体験が現実となったことが背景としてあります。VRはビデオゲームなどのエンターテイメントのみならず、教育や医療、建築、さらには人材開発の分野でも広く活用されるようになっています。例えば、2018年にはアメリカの小売店で、ブラックフライデーの混雑した店舗環境をVRでシミュレーションし、従業員に顧客対応や問題解決のスキルをトレーニングする取組みが行われています。この研修は、実際の繁忙期における従業員の対応能力を大幅に向上させた事例として注目されました。
VRによるトレーニングは、元来、実地で訓練するにはリスクもコストも甚大となる業界で活用されはじめました。しかしメリットはそれだけではありません。記憶定着度です。人は見聞きするだけでは忘れてしまいます。言葉で説明しても完全には理解しきれません。しかし、実際に体験できれば、より深く理解でき、スキルとして定着します。米国のある医科大学の研究3では、VRで研修した研修医の手術はそうでない者の手術と比べ、3割近く処置速度が速く、ミスが1/6だったというケースもあります。VRは体験そのものを提供できる上に、何度も繰り返して体験できるゆえ、VRは人材育成の課題解決にうってつけともいえるでしょう。
では、人的資本経営の観点からとらえたとき、日本企業は今後このVR技術にいかに活用していくべきか。VR技術を通じて見えてくるこれからの日本企業のあり方について、KPMGジャパンの専門家が語ります。
人的資本経営におけるVRの可能性
松尾:VR技術はここ数年で小売業界をはじめさまざまな業種の研修に採用され始めています。人的資本経営の観点から、VRにどのような効果を期待できるでしょうか。
大池:この1~2年、人材版伊藤レポートを受けて人的資本経営がより重視されるようになりました。教育研修はその柱の1つです。しかし、ワーカーの教育や研修の現場はまだまだ旧態依然としています。日本企業には、フェイス・トゥ・フェイスの研修を重視するような文化が色濃く残っているからでしょう。
その現場にも、eラーニングのようなITを活用するケースが年々増えています。これまでのeラーニングはプレゼンテーションソフトで作った紙芝居のようなものも多かったのですが、現在では対面型のセッションやゲーミフィケーションなども取り入れられ始め、理解度向上が図られています。個人的には、次のステップは「体感」が求められるのではないか、そこに大きな可能性があるのではないかと思っています。
福島:2010年頃は、たとえばVRでマーケティングの仮説検証をするにもリソースや大きな投資が必要でしたから、経営者はリスクを伴う決断が求められました。しかし、最近ではコストが下がっていろいろと試せる環境になってきたので、VRツールの効果について不安はあるものの、「まずは試してみよう」と経営者も一歩を踏み出しているように見えます。
KPMGコンサルティング株式会社
大池 一弥
大池:今はお客様のニーズが高まり、それに伴って展開するサービスや店舗のオペレーションが複雑化しています。POSシステムなどを含めIT機器のコストもどんどん高まっている。そのような状況で、経営側としては、研修コストは少しでも下げたいはずです。VRの競争優位性のひとつは導入コストにあるでしょう。
松尾:短期的に研修コストが圧縮できることは間違いなく大きなメリットでしょう。加えて、VRは人材育成コストの削減そのものだけにとどまらず、接客スキルの向上によって顧客満足度を高め、事業の成長につなげるといった、アップサイドの部分での効果も狙える可能性もありますが、いかがでしょうか。
伊藤:小売業界は人的コスト比率が非常に高い業界ですから、日々の運用業務をいかに効率的かつ標準的に行い、顧客に対するサービスレベルを上げていくか。またどうやって人的コストを抑制し、ROA(総資産利益率)ないしROI(投資利益率)を高めていくかという課題があります。
その小売というプラットフォームにおいて差別化し、優位性を獲得するところまで踏み込んだ議論をしていかないと、VRはただのツールで終わってしまうでしょう。一部からは、経営を劇的に推進していくような仕組みにはまだなり得ていないという話も聞きます。今はまだVRは、運用マニュアルの一類型としての位置付けにとどまっていますが、VR導入によってお客様とのコミュニケーション力、サービス力が向上し、それが次の売上に貢献するようになると、また新しい世界が見えてきます。VRは人的資本経営の最大効果を生み出すツールになり得ると考えます。
株式会社 KPMG FAS
伊藤 勇次
従業員の行動変容を促す疑似体験
松尾:VRは行動変容を促す効果も高いという調査4もあります。この特性を活かすことで、企業活動においてどのような可能性が広がるでしょうか。
福島:多くのVR研修のコンテンツは、トレーナーの動きをVRの世界に投影するという方法で作成していますよね。30営業日で900個のコンテンツを作るとなると、多くのオペレーションの要素が蓄積されることになり、ある意味コーパス(整理されたデータベース)のようなものと言えます。そこから人の観点、プロセス、コンテンツそのもののバリューアップにつながるような新提案ができそうな気がします。
松尾:VRを活用して教育成果と人事情報を結びつけ、学習速度を評価に反映させることも可能かもしれません。個々人のスキルを把握するのは難しいですが、VRなら習熟度に応じた個別の教育プログラムを組むことができます。例えば、VRでレジ操作を習得したら、次に商品補充やコミュニケーションスキルを学ぶといった形です。
伊藤:ある大手小売企業の社長は、「小売業はESGなどの社会的課題を消費者に伝える責任があるが、お客様とのコミュニケーションの接点が多い店員たちの理解度はまだ低い。だが、いずれはESGを消費者に啓発するためのコミュニケーション力を含めて評価していきたい」と言っていました。スキルなどソフト部分の定量化が可能になれば、人的資本経営があらゆる側面で効果を創出するものになり得るし、その企業の社会的価値がステークホルダーに伝えられるものになります。今後、もしかしたらVRがその手段となり得るかもしれません。そういう未来像を一緒に作り上げていけたら面白いと感じます。
KPMGコンサルティング株式会社
福島 豊亮
大池:私も、VRの強みは体感できることだと考えます。近年、ダイバーシティやLGBTQの認識、ハラスメントなどの社会的問題が注目されつつあります。多くの職場では、eラーニングを通じて適切な行動指針が提供されており、頭では理解しているはずですが、実際の場面でそれらを適用できるかどうか別の課題です。特に管理職となると、自身の育った時代背景や固定観念が強く影響を及ぼしており、行動変容が困難な場合があります。しかし、実際の場面を疑似体験することで、認識や対応は大きく変わり得る。問題に対する理解を深められ、より具体的な対策を講じるきっかけになるかもしれません。
時間の使い方を変え、より価値の高い領域に人材を
松尾:VRを使ってワーカーが1人で学べるようになると、人材育成担当者は余った時間を店舗のエンゲージメント向上などに活用もできます。もちろん時間を節約するソリューションは、AIをはじめVR以外の技術もありますが、小売業界では有人の店舗を運営する限り、人材育成は避けて通れない領域ですね。
伊藤:デスクワークはAIで置き換えられる部分が多いかもしれませんが、エッセンシャルワーカーの業務はそうはいきませんね。
福島:VRによる人材育成は小売だけでなく、日本の伝統工芸にも活用できるかもしれません。日本は少子化に伴い、伝統工芸の後継者不足が問題となっています。しかしVRにより、技能承継が可能となるならば、人材育成に対するコストや考え方が大きく変わる可能性があります。量産型の工場製品と異なり、手作りであること自体が重要な要素だからです。職人が1日に作る数枚の皿の価値は、その品質と価格において異なりますよね。職人の技術を向上させたり、後継者を育てたりすることに時間を投資することが産業全体に影響を与えるという考え方もあろうかと思います。
松尾:一方で、組織によっては、「私の仕事がなくなる」という心配が存在するために、人材育成におけるVR技術の導入が反対に遭う可能性もありそうです。
株式会社KPMGアドバイザリーライトハウス
松尾 英胤
福島: 確かに、過去には電話の自動化が始まった際には反対意見もありました。しかしながら、時間が経過するにつれて、新しい技術に適応することが求められるようになりました。これはチェンジマネジメントの典型的な例ですね。
大池:VRのさらなる用途として、組織風土改革や企業文化の醸成といったものも必ずあると考えています。
松尾:AIも同様ですが、人間が行っていた作業を技術で置き換えつつ、人間に求められるのは、より価値の高い領域にリソースを集中させていくこと。これがトランスフォーメーションの一環として進行していくのであろうと思います。そのなかで、人間が関わる領域が高付加価値化し、その領域が明確になっていく。そんなイメージですね。
福島:世界のVRヘッドセットの出荷台数は、2019年以降増加していましたが、2023年には減少に転じ(前年比38.9%減)5ており、2024年以降は新製品発売サイクルを考慮して浮き沈みが予測されています。とらえ方によっては、VRは安定期に入ってきているともいえ、長期的な視点に立ちつつ、地に足の着いたVR導入の戦略を立案すべきタイミングといえるかもしれません。
1 Angelica D. Garcia1 Jonathan Schlueter2 Eddie Paddock, (2020) "Training Astronauts using Hardware-in-the Loop Simulations and Virtual Reality".
2 "Virtual Reality Pioneer Tom Furness on the Past, Present, and Future of VR in Health Care", IEEE Pulse, May 28, 2019.
3 Neal E. Seymour, Anthony G. Gallagher, Sanziana A. Roman, et.al, (2002) "Virtual Reality Training Improves Operating Room Performance", Annals of Surgery, 2002 Oct; 236(4): pp.458–464.
4 Natalie Salmanowitz, (2018) "The impact of virtual reality on implicit racial bias and mock legal decisions", Journal of Law and the Biosciences, Volume 5, Issue 1, May 2018, pp.174–203.
5 総務省(2024)「情報通信白書令和6年版」