国際秩序の変容、AIの急速な進化、気候変動の深刻化、資源・水問題。これらの変化は個別に進行しているのではなく、相互に作用しながら、企業がこれまで所与としてきた市場、社会、ルールの安定性を揺るがしています。
こうした時代に、単線的な未来予測を前提として戦略を固定することは容易ではありません。経営者に求められるのは、未来を1つに絞り込むことではなく、変化が取り得る幅を捉え、実現したい未来と備えるべき現実の双方を経営に織り込むことです。
そのための思考の枠組みとして、本稿では「天国」と「地獄」という2つのレンズを提示し、未来の機会とリスクを捉え、経営判断に活かすための視点を解説します。
1.「天国」のレンズが映すもの
天国のレンズが映すのは、経済的繁栄と社会の安定、地球環境と人類の共存が両立する未来です。天国のレンズから見える未来では、脱炭素化と再生可能エネルギーの普及が進み、資源は回収、再利用、再生を通じて循環されます。AIなどのデジタル技術は、安全性、透明性、プライバシー、公平性を確保しながら、医療、教育、行政、産業の高度化に活用されます。多様な背景や価値観が尊重され、機会や負担が一部に偏らない社会も形成されています。
天国のレンズが映すのは、一般に「望ましい未来」とされる方向です。しかし、その実現可能性や経済合理性が十分に示されなければ、「きれいごと」や「理想論」にすぎないとの批判にさらされる懸念があります。
2.「地獄」のレンズが映すもの
地獄のレンズが映すのは、気候変動と国際秩序の不安定化が相互に作用し、危機が連鎖する未来です。地獄のレンズから見える未来では、脱炭素に向けた国際協調が後退し、1.5度シナリオが実質的に崩れれば、異常気象、海面上昇、食料・水不足が深刻化し、物価上昇、人口移動、社会の分断、資源を巡る国家間対立へと波及します。
また、多国間協調よりもむき出しの「力の論理」が優先されれば、経済的威圧、輸出規制、資源の囲い込みなどが常態化します。地獄のレンズは、自由な貿易、公正で予見可能なルール、社会的信頼といった、多くの企業が拠って立つ経営環境の脆弱性を明らかにし、備えるべき未来を提示しています。
3.2つのレンズを交差させる
2つのレンズは、同じ変化を異なる方向から観察するためのものです。たとえば、AIの進展を天国のレンズから見れば、生産性向上や人手不足への対応、人間の能力拡張が見えます。一方、地獄のレンズから見れば、雇用不安、偽情報、監視社会、サイバー攻撃が見えます。企業はAIへの投資と、ガバナンス、セキュリティ、人材移行を一体として検討する必要があるでしょう。
また、天国を機会、地獄をリスクと単純に対応させてはなりません。望ましい社会への移行も、既存事業の陳腐化、座礁資産、過剰投資をもたらし得るからです。一方、危機への備えや社会のレジリエンス向上に対するニーズは、防災、公衆衛生、サイバー防御、食料・水の安定供給など、社会課題の緩和や「新しい日常」への適応を支える事業の可能性を広げます。
ただし、社会課題の解決や危機の緩和を通じて事業価値を生み出すことと、危機を利用し増幅することで利益を得ることは区別しなければなりません。問われるのは機会の大きさだけでなく、その事業が誰にどのような価値をもたらし、どのような構造から利益を生むのかという妥当性です。
4.パーパスとビジョンをより現実的な拠り所にする
2つのレンズが示す複数の選択肢から、どのリスクに備え、どの機会に投資し、どの利益を拒絶するのか。その判断を方向づけるのが、パーパスやビジョンです。
パーパスやビジョンは、美しい標語や理想主義的な世界観にとどまるものではありません。誰のためにどのような未来をつくるのか。何をすべきで、何をしてはならないのか。2つのレンズを通して将来の機会とリスクをバランスよく検討することで、パーパスを実践的な経営のモノサシへと昇華させることができます。
5.経営インテリジェンスによってレンズを磨き続ける
2つのレンズを経営に活かすには、外部環境の変化を捕捉し、その意味を経営判断に反映する経営インテリジェンスが不可欠です。
「レンズを磨く」とは、単に情報量を増やすことではありません。地政学、政策、技術、気候、資源、社会動向を継続的に把握して視野を広げ、複数の事象の因果関係と自社への影響を分析することで、解像度を高めることです。
また、経営者の経験や既存事業への過剰な思い込みは、レンズに歪みを生じさせてしまう原因になる可能性があります。天国のレンズに偏れば、望ましい未来への期待からリスクを過小評価しかねず、地獄のレンズに偏れば、危機を過大視し、必要な投資や挑戦をためらうことにもなり得ます。異なる部門、地域、外部専門家の視点を取り入れ、経営の前提を問い直すことが重要です。そのうえで、戦略や長期ビジョンの前提条件と変曲点を明確にし、投資の拡大・縮小、事業転換、提携、撤退の判断条件を定めます。
インテリジェンスの役割は、未来を正確に予測することではありません。2つのレンズの視野と解像度を高め、歪みを補正しながら、経営の見立てと資源配分を更新し続けることが重要です。
6.おわりに
外部環境に関する情報や専門家による将来予測は、経営判断に欠かせません。しかし、情報や予測だけで、自社の進むべき方向が定まるわけではなく、最終的に問われるのは、経営者自身がどのような社会を望み、そのなかで自社をどのような存在にしたいのかという意思です。
2つのレンズは、未来の正解を得るためのものではありません。自らの前提や価値観を継続的に問い続け、まだ存在しない事業や市場を描ききる構想力、そして自社と社会の関係を長期的に捉える世界観を磨くためのものだと言えるでしょう。