本稿は「ブレインテックが描く新たな未来」の後編です。前編はブレインテックが注目される背景とその潜在的な価値について解説しました。今回は、ブレインテックの社会実装に焦点を当て、ブレインテックの活用を検討する際に対処すべき課題と、その課題を解決する方向性を示します。
1.社会実装へ向けた課題と解決の方向性
ブレインテックは医療、マーケティング、教育、エンターテインメント等を中心にますます発展していくと考えられます。しかしながら、人間の脳という繊細かつ重要な領域を扱う技術であるため、社会実装に際しては乗り越えるべき課題が多岐にわたります。
これらの課題一つひとつに正面から向き合い、解決策を講じていくことで初めてブレインテックの真の価値が発揮されると考えられるため、特に社会実装においては、倫理、法・制度、社会的受容といった観点から技術の影響を事前に整理する「ELSI(Ethical, Legal and Social Implications)」が重要な検討枠組みとなります。以下では代表的な課題をELSI(倫理面、法・制度面、社会面)と技術の観点より示し、その内容と解決の方向性を整理します。
【ブレインテックの課題と解決の方向性】
ELSIの観点(倫理面、法・制度面、社会面)
(1)倫理面:個人のプライバシーと自律性の保護
倫理面でもっとも重要なのは、脳活動データがきわめて機微性の高い情報であるという点です。これらは他の生体データとは異なり、思考や感情といった個人の最も私的な領域にアクセスし得るため、個人の尊厳や自律性と直結する課題を孕んでいます。
そのため、データ管理の観点からデータ利用目的・範囲・保存期間の透明化とその目的外利用の禁止や不正アクセス防止の仕組み作りを行い、そのうえで技術的限界や可能性についての正しい説明と同意取得が当事者の納得できる水準で実施されることが重要となります。
(2)法・制度面:ニューロライツを踏まえたルール形成
ブレインテックの広がりを受け、海外では「ニューロライツ(脳神経関連権)」に関する制度化の動きが徐々に進みつつあります。チリでは2021年に憲法改正を行い、脳活動データの保護を明記した世界初の国となりました。米国ではコロラド州など複数の州で、神経データをセンシティブデータとして保護する州法が成立しています。一方、EUでは現時点で明示的な法整備には至っていないものの、欧州議会や欧州委員会による政策検討や調査研究が進行中です。
日本においても、脳活動データの保護と利活用のバランスをとった制度設計が求められます。具体的には、データの法的位置付けや医療・非医療での利用範囲の明確化に加えて、個人の自律性・自己決定権の保護を含む包括的なルール形成が今後の課題となるでしょう。
(3)社会面:職場や教育現場など組織環境でのガバナンス
ブレインテックは、集中度の測定、安全管理、学習効果の可視化など、職場・学校といった組織的な文脈での活用も想定されるため、特定の個人に不当な不利益が及ばないガバナンスの設計が求められます。そのため、AI解析による透明性確保と偏りの点検や、利用者の意思に反した使用を強制しないオプトアウトの仕組みを設けることで、組織が技術をどう使うか、その影響をどう管理するかについての指針を明示した体制を整備することが重要です。
技術の観点
(1)データ利用価値の向上
世の中には行動ログやバイタルデータを活用した分析手法もありますが、それらでは代替できないブレインテックならではの価値を実現することが重要です。ブレインテックが真に価値を発揮するには、センサーの高解像度化やノイズ除去などの信号処理技術の高度化に向けた技術開発が求められます。また、さまざまな性質を持つデータとの連携も模索しながらのユースケース創出の検討も有効です。たとえば人体データだけでなくIoTデータなども対象にしたユースケース開発により、従来技術では解決が難しかった課題へのアプローチが検討できるなどさまざまな可能性が考えられます。
(2)再現性の確保
脳活動には大きな個人差があり、体調や感情によっても変動するため、誰もが安心して利用できる技術とするためには、使用条件と得られる効果の関係性について明確に示す必要があります。再現性の担保された結果が得られるように、多様なデータを使った検証や再現性を裏付けるエビデンスの蓄積、そして効果の個人差を容易に反映可能なパーソナライズ化された解析手法の開発が必要です。
(3)持続的な価値検証
現時点ではブレインテックの社会実装は開始されたばかりであり、キラーアプリや絶対的な効果が見込めるユースケースは確立されていないため、投資対効果が必ずしも約束されていません。そのため、段階的な目標を設定し、まずはユースケースを絞り小さな成功体験を積みながら、徐々に活用範囲を広げることが現実的だと考えられます。従来手法との差分を定量的に評価しながら、効果が確認できた領域から段階的に適用を広げる粘り強い取組みを進めることが重要です。
2.まとめ
ブレインテックは脳の領域に踏み込む挑戦的な技術であり、真に社会にインパクトを与えるイノベーションを生み出す可能性を秘めています。
たとえば、将来ブレインテックの技術進歩によって人間の考えている言葉やイメージを一定の精度で解読できるようになる可能性が高まり、脳内だけで他者と意思疎通できるようになれば、医療・福祉のみならずコミュニケーションの在り方そのものが変革されるでしょう。また、健常者にとっても脳とデジタルが直接つながることで、従来のインターフェースを介さずに情報をやり取りできる時代が来れば、ビジネスや生活の効率は飛躍的に向上するかもしれません。
しかし現在のところ、日本ではブレインテックが大々的に報道される機会は限られ、一般の認知度も高いとは言えません。それでも前編でも述べたように、海外では巨額の資金と人材がこの分野に投じられており、日進月歩で技術開発が進んでいます。ブレインテックが本格的に社会実装される未来は決して遠い話ではなく、私たちもその来るべき未来に向けて着実に準備を始める時期に来ていると言えるでしょう。
企業や社会が、限定的な領域から実証や実装を積み重ね、ユースケース創出やガバナンス設計に主体的に関与していくことが、ブレインテックの現実的な発展と社会実装を前進させる鍵になります。
KPMGは、技術の可能性とリスクの双方を見据えながら、企業・行政とともにブレインテックがもたらす次世代の価値創出とルール形成を支援していきます。
執筆者
KPMGコンサルティング
シニアコンサルタント 松原 孝将