ブレインテックとは、脳(ブレイン)に関するテクノロジー全般を指す言葉です。脳神経科学の知見と高度な計測・解析技術の融合によって、脳の活動に伴う微弱な電気信号を読み取り、人間の思考・感情・行動を推定・解釈したり、逆に脳に刺激を与えて働きかけたりする技術です。
近年、センサーやAI技術の進歩により、大掛かりな装置を使わずとも脳活動データを手軽かつ高精度に取得・分析できるようになりつつあります。その結果、重度障がいの治療実現から、深層心理や無意識の状態を活用した日常・ビジネスへの応用まで、ブレインテックがもたらす価値に注目が集まっています。
米国・EU・中国を中心とした各国政府の長期的な公的研究投資と、Big Tech・製薬・医療機器企業による巨額の内部R&D投資を含めて捉えると、世界全体では中長期で数兆円規模の資金が投入されている政策・産業横断型の重点領域と位置付けられています。
一方で、日本国内では他の先端技術に比べるとブレインテックが話題に上る機会はまだ多くありませんが、新たな事業機会が生まれつつあるいま、この変化を見過ごすべきではないと考えます。
そこで本コラムでは2回にわたり、ブレインテック分野の現状と今後の展望を考察します。前編ではブレインテックが世界で注目される理由とそのもたらす価値について概観し、後編では社会実装に向けた課題と対応策について解説します。
1.ブレインテックが世界で着目される理由
ブレインテック分野が近年盛り上がりを見せている背景には、技術基盤の成熟があります。以前は脳活動を計測するにはMRIのような大型機器や、頭部に多数の電極を装着する特殊な装置が必要でした。得られるデータも膨大かつノイズが多く、専門研究者以外には活用が難しかったため、実用化へのハードルが高いものでした。すなわち、計測機器が大掛かりで高価であったこと、また取得したデータの解析が高度な専門知識を要したことが、ブレインテックを研究用途にとどめてきた主な要因でした。
しかし近年、AI(人工知能)を含む先端技術の急速な発展により、脳波計測デバイスの小型化・高性能化が進み、大規模データの解析も飛躍的に容易になりました。その結果、脳活動データを迅速かつ高精度に取得・分析できる環境が整いつつあり、 ブレインテックを研究室の外で活用する障壁が大きく下がっています。
実際、手軽に装着できる数万円程度の簡易脳波デバイスも登場し、一般消費者が利用可能な製品・サービスが増え始めています。こうした技術潮流に乗り、ブレインテックは医療分野のみならず幅広い業界で新たな価値創造をもたらす可能性が議論されるようになりました。
【従来のブレインテックが抱えていた技術的ハードルと、その低下をもたらした近年の技術進化】
さらに国家規模の大型プロジェクトもブレインテック分野を後押ししています。米国では2013年に「BRAIN Initiative」を立ち上げ、10年以上にわたり累計で数十億ドル規模の研究予算が計上されており、EUでも2013年より約10年間で10億ユーロ規模を投じた「ヒューマン・ブレイン・プロジェクト」が遂行され、脳研究の基盤整備が進みました。中国も2021年に「China Brain Project」を本格始動し、中長期で数百億元規模の国家予算を投入する計画です。日本でも内閣府のムーンショット型研究開発制度のもとで、ムーンショット目標9におけるELSIガイドライン(研究開発から社会実装に向けた方針)などを踏まえ、ブレインテック社会実装に向けた環境整備が着々と進んでいます。ELSI(Ethical, Legal and Social Implications)とは、新技術が社会にもたらす倫理的・法的・社会的な影響や帰結を整理し、社会実装に向けた前提条件を検討する枠組みです。
このように世界各国で巨額の投資と研究開発が進行中であり、また民間においても脳神経系テクノロジー企業への投資額は近年急増しているため、市場規模は今後も高成長が見込まれています。ブレインテック分野は技術革新と資金投入の両面から追い風を受けており、新たな事業機会の創出が期待されています。
2.ブレインテックのもたらす新たな価値
ブレインテックによる最大の価値は、人間の内面状態を直接データ化できる点にあります。従来のセンサーや行動データが捉えていたのは、人間の体の動きや生理反応といった顕在化した事象に過ぎません。一方、ブレインテックは脳からの信号を直接計測することで、当人自身も明確に言語化できていない潜在的な意識状態を推定することが可能となります。従来は見えなかった人間の意図・感情の揺らぎを把握することで、人体の外部に表れる兆候を待たずに人間の生理的状態や本音をより早い段階で把握できる可能性が期待されます。
たとえば、現在のウェアラブル端末は心拍数や体温などの表出した現象を指標として測りますが、脳波はそうした現象に先行して生じる脳内の状態変化を捉える指標として位置付けることができます。ゆえにブレインテックを活用すれば、従来よりも一歩先回りした意思決定や働きかけが可能になると期待されます。実際に、脳波などを直接測定すれば、異常や不調の兆候が身体症状として表れるより前に察知できる場合があると言われています。このように脳活動データの活用は、健康管理からビジネスまで、既存データでは困難だった高度な意思決定やサービス改善につながる新たな価値を生み出し得るのです。
具体的なユースケースとして、医療分野においてブレインテックが重度の運動機能障がいを克服する糸口となりつつあります。たとえば、四肢麻痺の患者の脳に電極を埋め込み、思考したとおりにコンピューターやロボットアームを操作できるようにするBrain Machine Interface(BMI)の臨床試験が進んでいます。臨床試験を進めるなかで安全性と有効性が確認され規制当局の承認が得られれば、数年後には思考だけでさまざまな機器を操作できるブレインテック製品が、新たな治療法・支援技術として実用化される可能性があります。
一方、非医療分野においても人間の無意識下の反応を活用する高度な意思決定が実現しつつあります。たとえばマーケティング領域では、従来CMの効果検証などにアンケート調査や視線追跡・表情分析が用いられてきましたが、それらは消費者の心理を間接的に推し量る手法であり、回答バイアスや観察できる範囲の限界がありました。ブレインテックを活用すれば、広告を見た際の脳の興奮度合いや感情的な反応を脳波データから直接読み取ることで、消費者本人も自覚していない本当の感情を把握できる可能性があります。実際にニューロマーケティングと呼ばれる手法では、被験者に脳波計を装着してテレビCM視聴中の集中度や感情変化を測定し、そのデータに基づいてより訴求力の高い映像表現を開発するといった試みが行われています。
また、教育や職場で集中力を最適化するニューロフィードバックも実用化が進んでいます。個人の脳波から集中度合いをリアルタイムにモニタリングし、集中が切れ始めたタイミングで休憩を促すことで、結果的に学習効率や作業パフォーマンスの向上、ヒューマンエラーの防止につなげる取組みです。このようにブレインテックは、人間それぞれの潜在的な状態に応じて環境やインターフェースを調整し、最適な行動を引き出すことを可能にします。
以上のように、ブレインテックは医療から日常生活まで幅広い領域で実験と実用化が進みつつあり、私たちの生活やビジネスに徐々に身近なかたちで影響を及ぼし始めています。脳活動データを活用することで初めて解決できる課題が見いだされ、新たな価値が創造されつつあります。一方で、ブレインテックにより扱われる脳活動データ(ニューロデータ)は個人の尊厳やプライバシーと密接にかかわることから、適切な同意設計や利用目的の明確化を含むガバナンスの整備が不可欠となります。
3.まとめ
前編ではブレインテックの世界的潮流と提供価値について述べました。続く後編では、ブレインテックの最新動向と社会実装に向けて乗り越えるべき課題、特にELSIやガバナンスの観点から、その解決の方向性について考察します。
執筆者
KPMGコンサルティング
シニアコンサルタント 松原 孝将