本稿は、KPMGコンサルティングの「Automotive Intelligence」チームによるリレー連載です。本稿では、明確な転換点を迎える欧州の自動車政策を読み解き、「インダストリアルディール」へと進化する自動車産業の今後の流れを考察します。
環境目標と産業競争力を両立させる欧州の制度再設計
欧州の自動車政策は今、明確な転換点を迎えています。従来の欧州は、「環境規制の強化そのものが競争力になる」という発想のもと、カーボンニュートラルを自動車産業政策の中核に据えてきました。2019年の欧州グリーンディール、2021年のFit for 55、さらに2023年までに相次いで導入された国境炭素税、ETS、再生可能エネルギー政策は、その象徴です。2050年の気候中立、2030年までの大幅な温室効果ガス削減、2035年以降の新車CO₂排出ゼロという強い目標設定は、欧州が世界のカーボンニュートラル競争を主導するという明確な意思表示でした。
【図表1】
しかし、2024年6月の欧州議会選挙を境に、その重心は明らかに動き始めました。環境重視一辺倒の姿勢から、経済と産業競争力を同時に守る方向へと、政策の軸足が移っています。これは環境政策の後退を意味するものではありません。むしろ、環境目標を掲げ続けるだけでは不十分であり、それを実行する産業基盤が欧州域内に残らなければ意味を持たないという、現実認識が前面に出てきたとみるべきでしょう。言い換えれば欧州は、「グリーンであること」自体を目的化する段階から、「グリーンを通じて産業競争力を維持する」段階へと移行しつつあります。
その象徴が、自動車オムニバス法案に示された考え方です。この法案は、不要な規制を削減することで業界の負担を軽減し、イノベーションを後押しすることを狙っています。たとえば、3.5~4.24トン級のBEVについては、ディーゼル車と同等の扱いとし、タコグラフの搭載義務を免除するとともに、速度制限装置の義務も撤廃するものです。これにより、年間で相当規模のコスト削減が見込まれます。
Euro 7についても、他の試験と重複する低温排出ガス試験を廃止し、大型車エンジンの認証試験を見直すことで、不要な反復試験を削減する方針です。さらに、EU独自の騒音規制を廃し、国連規則に一本化する動きも打ち出されています。
【図表2】
この一連の動きは、単なる規制緩和ではありません。本質は、欧州が「守るべき規制」と「競争力を削ぐだけの規制」を意識的に選別し始めた点にあります。ドラギレポートでは、過剰で複雑なルールが企業の競争力を損ない、研究開発費の最大25%が多数の法令順守への対応に費やされているという問題意識が示されています。本来、電池やソフトウェア、車両アーキテクチャ、新たなモビリティサービスに投入されるべき資源が規制対応に吸い取られているとすれば、それはカーボンニュートラルの推進ではありません。むしろ、カーボンニュートラルを担う主体である欧州自動車産業の体力を削ぐ行為に等しいといえます。だからこそ、規制の合理化は環境政策の後退ではなく、実行可能性を高めるための再設計と捉えるべきなのです。
この文脈で注目すべきなのが、M1Eカテゴリーという発想です。これは、内燃機関を持たないBEVを前提とし、全長4.2メートル以下の小型乗用車を想定した新たな車両区分です。都市内の短距離移動を主用途とするL6eやL7eに対し、M1Eは都市・近郊での利用を想定しつつ高速走行も視野に入れた、より実用性の高い小型BEVとして位置付けられています。
重要なのは、M1Eが単なる車両分類にとどまらず、欧州域内で小型かつ手頃な価格のBEVを普及させるための「政策的な器」として構想されている点です。そこには、このセグメントで中国OEMの台頭を許し、欧州OEMが市場から撤退する事態を回避するという明確な意図も読み取れます。「Made in EU」のM1E車両をOEMのCO₂カウント上で1.3台分として扱う優遇案は、その象徴的な施策と言えるでしょう。
【図表3】
ここには、欧州の抱える悩みが凝縮されています。現在の欧州自動車市場では、大型で高価格なBEVは一定の存在感を示す一方、小型で手頃な価格の大衆向けBEVは十分に普及していません。その背景には、電池コストの高さに加え、安全装備の義務化、認証負担の重さ、開発採算の悪化といった構造的要因があります。結果として、欧州OEMは廉価BEVの市場形成に苦戦し、低価格BEVを武器とする中国勢に対して脆弱な立場に置かれています。
M1Eは、こうした構造問題に対する1つの回答と言えます。たとえばADAS搭載義務の免除や緩和などを通じて、安全とコストのバランスを見直し、1台当たり数百ユーロ規模のコスト低減余地を生み出すことで、普及価格帯を現実的な水準に引き下げる可能性があります。つまり欧州は、BEV普及を諦めたのではありません。BEVを「成立させる」ための制度設計を、より産業政策的な視点から組み替え始めたのです。
さらに興味深いのが、「Made in EU」を前面に押し出した追加政策です。バッテリーブースターとして総額18億ユーロの基金設立が示され、そのうち15億ユーロは欧州の電池セル生産企業向けの無利子ローンに充てられます。狙いは明快です。欧州域内の電池産業を「死の谷」から救い出し、スケールアップを後押しすることで、中国電池サプライヤーへの依存を引き下げることにあるのです。
一方、需要面では、企業フリートのカーボンニュートラル化を通じて、確実な「Made in EU」需要を創出しようとしています。欧州の新車販売のおよそ6割が法人需要であることを踏まえれば、この市場にZLEV導入を義務付けたり、公共調達や補助金に域内生産要件を付加したりする施策は、きわめて強力な需要創出策となり得るのです。
【図表4】
ここから読み取れるのは、欧州が自動車産業の転換を、自由市場の論理だけに委ねていないという点です。供給側には資金支援を、需要側には制度的な購買誘導をかけ、その間に規制の合理化や新たなカテゴリー設定を組み込みます。環境政策、産業政策、競争政策、さらには安全保障政策が、相互に連動し始めているのです。
これはもはや、従来の意味での「グリーンディール」ではありません。環境目標を掲げつつ、産業基盤の維持と保護を重視するという、その実態は、「インダストリアルディール」への進化と捉える方が適切と言えるでしょう。
では、この流れは今後どこへ向かうのでしょうか。2025年3月のCO₂規制見直し、同年12月の目標値見直し提案や自動車オムニバス法案の提示、さらにはその先に控える追加的な規制・施策の再検討が示唆されています。今後の焦点は、おそらく3点に集約されます。
第1に、カーボンニュートラルという目標自体をどこまで維持しつつ、時間軸や達成手段をどこまで柔軟化できるか。第2に、小型BEVや商用BEVといった採算性の厳しい領域で、コスト低減と市場創出をどこまで両立できるか。第3に、中国製BEVへの依存を抑えながら、欧州域内のサプライチェーンを実質的に再構築できるか、です。
【図表5】
そして忘れてはならないのは、この欧州の変化が、欧州だけの問題ではないという点です。自動車産業は本質的にグローバル産業であり、欧州の制度変更は、日本、中国、米国を含むすべてのプレーヤーの戦略に波及すると考えられます。とりわけ日本企業にとって重要なのは、欧州を単に「環境規制が厳しい市場」と捉える時代が終わりつつあるという認識です。これからの欧州は、環境を掲げながらも、その内実としては域内産業の保護と競争力回復を強く意識する市場へと変わっていくでしょう。
そこで問われるのは、規制を形式的に順守できるかどうかではありません。欧州の政策目的にいかに整合し、どの領域で域内の競争力強化に実質的に貢献できるかという、その戦略的な立ち位置こそが、今後の成否を左右すると言えるでしょう。
欧州は理想を捨てたのではありません。理想だけでは勝てないと悟ったのです。カーボンニュートラルの旗を下ろすことなく、それを産業政策として組み替えるという、したたかな修正こそが、今欧州の自動車政策で起きている本質です。自動車オムニバス法案、M1Eカテゴリー、「Made in EU」を軸とした需要創出策は、いずれも同じ方向を向いています。すなわち、環境目標の実現と欧州産業の生存を同時に成立させるための、現実主義への転換です。
今後の欧州を読み解くうえで重要なのは、規制が強まるか弱まるかではありません。規制が、誰の競争力を守るために、どのように再設計されていくのか。その視点を持てるかどうかが、次の産業地図を読み解く鍵になります。
※本稿の図表の参考資料は以下のとおりです。
- European Commission「Commission boosts European automotive industry's global competitiveness」
- European Union「EUR-Lex - 52025PC0993 - EN」
- European Commission「Automotive package」
- ACEA「Penalty relief for 2025 for cars and vans: why it matters and what’s at stake」
執筆者
KPMGコンサルティング
プリンシパル 轟木 光