目次
はじめに:サステナビリティ規制の揺らぎと高まる企業リスク
地球環境の保全や人権保護を目指す国際社会の大きな流れのなかで、近年、欧州連合(EU)をはじめ各国当局はサステナビリティ関連の新規制を相次いで導入しています。
たとえばEUでは、これまでグリーンディール政策を旗印に、
- CSRD(企業持続可能性報告指令)
- CSDDD(企業のデューデリジェンス義務指令案)
- EUDR(森林破壊規制)
- バッテリー規則
- FLR(強制労働製品禁止規則)
- CBAM(炭素境界調整メカニズム)
など、EU域内のみならず世界中の企業が事実上の対象となる規制を新たに法制化し、国際的な規制や基準づくりをリードしてきました。
しかし一方で、各国の政治動向や地政学的対立、産業競争力への懸念などが絡み合い、2024年10月には2ヵ月後に発効が迫っていたEUDRの延期が急遽決定されたり、2025年4月には、CSRD・CSDDD・CBAMを大幅に緩和する「オムニバス法案(Omnibus I)」が可決したりといった規制の「揺り戻し」も頻発しています。
加えて米国では、2025年3月にEUによる域外適用規制を念頭に、海外のDD規制に自国企業が従うことを禁じる内容を含む法案(通称、PROTECT USA法)が議会に提出され、グローバル企業の活動が板挟みになるリスクも高まっています。
こうした急激な変更・揺り戻しは、サステナビリティ規制に真摯に向き合ってきた企業に大きな混乱をもたらします。法対応が遅れれば巨額の罰則リスクやブランド毀損につながる一方で、先行投資を急ぎすぎた結果、規制の変更によりサンクコストが生じたり、第三国の規制との関係で板挟みにあったりというジレンマが発生することが想定されます。
サステナビリティ規制が激動する今日、企業は揺れ動く規制と相対し、厳格な規制にいつまでに/どこまで対応すべきか、それぞれの自主的な判断を求められています。
そこで本稿では、これらの課題に対応し、企業が規制環境の不確実性に耐え得るレジリエンスを高めるために必要となる2つのアプローチを紹介します。
企業内インテリジェンス機能の確立
外部の法令動向や政治情勢、内部情報を統合・分析し、迅速かつ戦略的な経営判断を下すための土台づくりについて、特にサステナビリティ規制に関連する法令・政策のインテリジェンスに焦点を当てて解説します。
(1)攻めの法令対応:受動的に規制を“待つ”のではなく、実務上の課題や代替案を自ら提示し、規制形成段階から関与することで企業に有利な環境づくりをリードする体制を整備する。
本稿の第1部では、企業内インテリジェンス機能をどのように構築・活用すべきかを、第2部では、サステナビリティ規制に対する攻めの法令対応の具体的手法を解説します。そして第3部で、両者をどのように連動させて企業価値を最大化し、未来を創るかをまとめます。
第1部:企業内インテリジェンス機能の確立
サステナビリティ規制は、経営陣はもちろん、法務・調達・生産・営業など社内のあらゆる部門に影響を及ぼします。加えてその背景には、地政学リスク、政策トレンド、国際交渉の力学など多様な外部要因が絡んでおり、企業はこうした外的環境の揺れを先読みしながら、柔軟かつ迅速に対応する力が求められています。
このような観点から、「インテリジェンス機能」は単なる法令の追跡にとどまらず、政治・経済・技術・世論など複数の情報を横断的に把握・分析する企業の戦略的基盤として位置付けられます。しかし、多くの企業では現地法人や代理店、あるいはメディアの記事などの二次情報に依存し、「いつの間にか規制案が修正されていた」という事態が後を絶ちません。これではリスクマネジメントどころか、罰則やコンプライアンス違反が発覚するまで気付けない恐れすらあります。
そのため、本稿では、この広範なインテリジェンス機能のなかでも特に、急速に変動するサステナビリティ関連の法令動向に着目した「法規制インテリジェンス機能」に焦点を当てて議論を進めます。
特にサプライチェーンがグローバルに広がる企業では、一国の法令変更が一気に世界的な業務停止や余計なコスト増につながるリスクが高まっています。そこで、内部外部の情報を一元化し、客観的かつスピーディに分析して経営判断につなげる企業内インテリジェンス機能、とりわけ法規制に関する機能がカギを握ります。
1.2 法規制インテリジェンス機能を強化する仕組み
本節では、広義のインテリジェンス機能のなかから、特に企業にとって直接的なインパクトを持つ「法規制」に焦点を当て、どのように社内体制を整備・強化していくかを具体的に解説します。
(1)議会・当局の原文・公式資料を入手:欧州委員会、欧州議会、ホワイトハウス、米国議会などの公式ウェブサイト、プレスリリース、法案全文、関連する議事録を直接読む。
(2)パブリックコメントやNGOレポートの分析:業界団体、NGO、市民団体が提出した意見書や声明をチェックし、誰が何を懸念・推奨しているかを把握する。
(3)政治力学だけでなく政策目的も整理:「延長」や「緩和」を要求している勢力が“競争力確保”を理由にしているのか、それとも“業界の事情”なのかを区分する。逆に規制強化を主張しているのは、環境NGOか市民団体かなど、主張の方向と政策目的をマッピングする。
(4)複数の施行シナリオを描く:それぞれのリスクと対策コストを試算し、企業として「どこまで先行投資を進めるか」「どこで軌道修正をかけるか」の判断材料とする。
(A)当初案どおり厳格施行されるシナリオ
(B)一部要件が段階的に緩和・猶予されるシナリオ
(C)大幅延期・棚上げシナリオ
【図表1:法規制インテリジェンス機能の概念図】
出所:KPMG作成
小括:激動する規制下での意義
企業内インテリジェンス機能が確立すれば、規制が延期・緩和へ向かう場合も、逆に厳格化される場合も、“直前に慌てる”リスクを大きく減らせます。自社にとって重要なシナリオを常時モニタリングし、迅速な軌道修正が可能となる点が、激動する規制下での最大のメリットです。サプライチェーンの広範な関係者とやり取りするうえでも、最新かつ確度の高い情報に基づいた指示を出せるため、無駄なコストを削減しながら適切なコンプライアンスを実現しやすくなるでしょう。
また、政治力学と規制の大目標を同時に理解することで、規制が二転三転しても企業が本質的な対策をブレずに進めることができます。一時的に延期や緩和が出ても、森林破壊や人権侵害を容認する社会的風潮が変わるわけではなく、投資家や消費者が企業のサステナビリティ姿勢を注視するトレンドも依然継続中です。だからこそ、目的や意図を押さえたうえで「先読み」を行い、コストやタイミングを最適化しながら、社会の一員として責任ある行動をとり続けることが、激動の規制下で企業価値を守り・高めるカギとなります。
さらに、こうしたインテリジェンス機能の構築は、戦略リスクマネジメントやERM(統合的リスク管理)の強化とも密接に関連します。将来的な法規制の変動や政治リスクを“外的ショック”として扱うだけでなく、組織の中長期戦略や価値創造に直結する経営課題として捉え直すことで、より構造的・前向きなリスク管理が可能となります。法務・コンプライアンス部門だけでなく、経営企画やリスク管理部門とも連携しながら、インテリジェンス機能をERMと一体的に検討・設計していくことが、これからの企業に求められる姿勢です。
第2部:攻めの法令対応
2.2 攻めの法令対応:具体的ステップとロビー活動の要点
ここでは、サステナビリティ規制形成の初期段階から日本企業が能動的に関与するためのステップを厚めに解説します。
(1)自社リスク・影響度の洗い出し
- 第1部で構築したインテリジェンス情報をもとに、「どの法案や改正案がいつ成立しそうか」「自社のサプライチェーンビジネスモデルにどのような影響を与えるか」を優先度付けする。
- 影響が大きいと判断した法令については、実務上どこが過度な負担になりそうか、あるいはどこが不明確でリスクが高いかを明確化する。
(2)データ収集と提言内容の構築
- 規制当局やNGOを納得させるためには、客観的なデータや具体的な事例が必須。たとえば、森林破壊防止に関するEUDRであれば「トレーサビリティを確保するために必要なコストと時間」「既存の認証制度でどこまでカバーできるか」などを数値化し、段階的導入や緩和措置がなぜ必要かを説得力のある形で示す。
- 企業単独では情報不足であれば、業界団体、コンサルティング会社、研究機関などと連携し、データを補完・分析する。
(3)共同提言・連名書の作成
- 日本国内の同業他社だけでなく、欧米企業とも連携して共同提言を行う例は多い。サステナビリティ規制で共通の困難を抱える企業や団体が協力し、一貫した意見をまとめれば、議会・当局へのインパクトが高まる。
- 連名書では、ただ「緩和を求める」というだけでなく、「社会の大目標を損なわずに、どう実務上の負担や混乱を抑えられるか」という建設的な代替案を提示することが大切。
(4)ロビー活動の実施と遵守すべきルール
- EUや米国には、ロビー活動に関する登録・報告義務や透明性ルールが設けられている。日本企業であっても、現地の法律事務所やロビー専門会社を活用し、違法な働きかけと見なされないよう注意が必要。
- 公聴会や議会委員会で意見を述べる際は、可能な限り現地言語や英語で、データに裏付けられた論理的主張を行うことが求められる。
- NGOとの対話チャンネルを設けることで、「環境・人権保護の大目標を企業がどのように支援できるか」を示すと同時に、実務上の制約やコストをリアルに伝える橋渡しも可能になる。
(5)成立後・運用ガイドライン策定期のフォローアップ
- 法案が可決したあとも、運用ガイドラインや細則が何度か改定されるケースが多い。そこで、引き続き当局・議会サイトなどをモニタリングし、追加提言や解釈を確認しながら自社のコンプライアンス体制を整えていく。
【図表2:攻めの法令対応ステップ】
出所:KPMG作成
2.3 企業価値を守り・創る攻めの法令対応の意義
- 最大限のリスクヘッジ
予想外の施行スケジュールや過剰要件を“事前に修正”できれば、違反による巨額罰金やサプライチェーン寸断リスクを大幅に抑制。
- 先行者優位の確立
規制の厳格化や市場のサステナビリティ志向が高まるほど、早期から体制整備を進めた企業がESG投資家や顧客の支持を集めやすくなる。
- 社会課題解決との両立
自社都合の緩和要望だけではなく、環境・人権などの大目標に即した実現可能な仕組みづくりを提案することで、企業としての社会的責任も果たしやすい。
小括:日本企業が海外法令を“攻め”る意義
攻めの法令対応は、単に「規制を無理やり緩和させよう」とするものではなく、「企業現場の実情や段階的導入策を提案し、社会的価値を損なわない範囲で緩和を勝ち取る」という建設的なアプローチです。激動する規制下だからこそ、企業が静観するのでなく政策形成に関与し、実行可能なルールづくりを後押しすることで、事業継続の安定性とサステナビリティ目標の両立を図れる点に意義があります。
第3部:インテリジェンスと攻めの法令対応を連動させる未来戦略
ここまで紹介した「企業内インテリジェンス機能(特に法規制に関するもの)」と「攻めの法令対応」を連携させることで、企業は外部環境の揺れ動きに左右されることなく、柔軟かつ先見的に対応を進められます。
(1)インテリジェンスで早期警戒→攻めの対応でルール形成を誘導
- 迅速な情報収集・分析により、規制案の初期段階から“どこに実務的な難点があるか”を把握し、具体的エビデンスを伴う提言活動を開始できる。
(2)シナリオプランニング→各シナリオ別にロビー戦略を策定
- 規制が厳格施行されるAシナリオにはこのロビー活動を、段階的導入のBシナリオには別の提言書を、といった具合に複数案を並行して準備し、どの展開でも最適策を打てる体制を整える。
3.2 経営陣が認識すべき危機感とアクションプラン
- 「対応が遅れれば全社規模の損害が発生する」
サステナビリティ規制を軽視したままでは、納期遅延・巨額罰金・製品出荷停止など、事業継続そのものが危ぶまれる可能性がある。
- 「無駄な先行投資は企業を傷つける」
規制が大幅延期されるかもしれないときに、一気に大金を投じてしまい、後で緩和された場合にはコストだけが残るリスクもある。
- 「現地との温度差を埋めるには、自社から関与するしかない」
海外の当局・議会は必ずしも日本企業の実情を熟知していない。自社が公的プロセスへ積極的に参加しなければ、不利なルールが放置されてしまう。
3.3 実務レベルの“統合ロードマップ”
(1)経営トップが“インテリジェンス×攻めの対応”を最優先課題に掲げる
経営方針として予算や人員を確保し、全社プロジェクトとして展開。
(2)情報収集担当(インテリジェンス部門)と法令対応担当(法務・政府渉外など)の協働体制を作る
インテリジェンス部門が集めたデータを法務チームへ即座に共有し、ロビー戦略や代替案作成に反映。
(3)PDCAサイクルの常設
法改正対応の進捗を定期的にレビューし、社内外のフィードバックを踏まえて体制をアップデート。
【図表3:サステナビリティ関連規制の対応プロセス】
出所:KPMG作成
結び:不確実な未来を見据え、“自ら未来を創る”企業へ
世界的な政治情勢を鑑みても、サステナビリティを巡る潮流は大きなチャレンジを受けており、それに伴い関連する規制自体も延長や緩和といった形で揺れています。しかし、一定の投資家や消費者、NGOからの厳しい視線は依然として存在し、またなによりも環境問題、特に気候変動に代表されるように企業は明らかなリスクに晒され、または社会課題に直面しています。そのため、「法令がどう展開しても慌てず、かつ機会を逃さない」体制を築くことこそ、今後の企業の競争力と存続を左右する決定要因と言えます。
本稿で提示した企業内インテリジェンス機能と攻めの法令対応という二本柱を同時に強化することで、企業には以下のような未来が開かれるでしょう。
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「待ちの姿勢」にとどまれば、法律の変更や社会からの批判が企業を飲み込み、大きなダメージが懸念されます。しかし「自ら法令形成にかかわり、未来を創る」企業には、レジリエンスと新たなビジネスチャンスの可能性が広がります。
この不透明な時代を乗り越えるために、今こそ経営トップから現場担当者までが一体となり、インテリジェンスと攻めの法令対応の両輪を回すことが重要です。組織としての力が高まれば、サステナビリティ規制の“激しい波”をリスクではなく“成長へのうねり”として捉えられるでしょう。
執筆者
KPMGコンサルティング
シニアマネジャー 荒尾 宗明
マネジャー 吉田 愛子
シニアコンサルタント 中畑 良丞