実効性のある人権デュー・ディリジェンスを目指して
人権DDとは、企業の事業活動に織り込まれる定期的かつ継続的な取組みです。グローバル・スタンダードの要求レベルを網羅する対応を、企業一丸となって推進することが重要です。
人権DDとは、企業の事業活動に織り込まれる定期的かつ継続的な取組みです。グローバル・スタンダードの要求レベルを網羅する対応を、企業一丸となって推進することが重要です。
本インサイトは、2022年6月15日に配信のKPMGインサイト「ビジネスと人権~経営の「周辺課題」から「重要課題」へ~」の続編です。本稿では、OECDの「責任ある企業行動のためのOECDデュー・ディリジェンス・ガイダンス(以下、OECDガイダンス)」や国連「ビジネスと人権に関する指導原則(以下、指導原則)」といったグローバル・スタンダードを参考に、人権デュー・ディリジェンス(DD)の実施に向けたポイントを企業実務に鑑みつつ解説します。
目次
1.人権DD実施に当たっての前提
人権デュー・ディリジェンス(以下、人権DD)というターミノロジーが、特に日本のビジネス界隈で市民権を得たのは、ここ2~3年の出来事です。読んで字の如く人権DDは、「人権」と「デュー・ディリジェンス(DD)」という2つの単語に分解されます。DDは、投資対象企業の事業の実態をさまざまな観点から適切に把握し、買収価額や取引条件に反映させるための一連の調査プロセスと解されることが多いでしょう。
一般的なDDへの理解もあいまって、「人権DD」というターミノロジーは、いわゆる、財務DD、法務DD、環境DDといったDDテーマに追加された新たなトピックスと認識されるケースが多く見受けられます。この理解は決して誤りではなく、指導原則 原則17の解説文(commentary)では「(人権リスクは、)合併や買収を通じて継承されるかもしれないことを考えると、新たな事業または取引関係を展開するにあたっては、人権デュー・ディリジェンスにはできるだけ早く着手されるべきである。」との説明が付されており、投資判断局面における人権リスクの調査・評価の実施が推奨されています。
ただし、OECDガイダンスの第II部「デュー・ディリジェンスのプロセス」および指導原則の原則17(c)にて規定されているとおり、基本的な人権DDの考え方としては、M&Aといった局所的な状況下で単発的に実施するだけでなく、事業活動における定期的かつ継続的な実施が前提とされている点には留意が必要です。DDという用語が想起させる単発的なイメージだけで人権DDを捉えてしまうことは不十分です。人権DDは1回実施して終わりという取組みではなく、周期性かつ反復性をもって事業活動の中に織り込んでいくことが、グローバル・スタンダードからは求められています。
2.企業としての人権マネジメントの全体像と人権DDのステップ
OECDガイダンスでは、DDとは「人や社会に対する負の影響の原因を特定し、負の影響を軽減し、場合によっては是正措置を講じる一連の流れ」と定義されており、具体的には下記の6つの要素を列挙しています。
- 『責任ある企業行動を企業方針および経営システムに組み込む』
- 『企業の事業、サプライチェーンおよびビジネス上の関係における負の影響を特定し評価する』
- 『負の影響を停止、防止および軽減する』
- 『実施状況および結果を追跡調査する』
- 『影響にどのように対処したかを伝える』
- 『適切な場合是正措置を行う、または是正のために協力する』
2-1.人権マネジメントの全体像
KPMGでは、OECDガイダンスをベースに、指導原則が企業に期待するエッセンスを盛り込みながら、企業の人権マネジメントの全体像を図1のとおり整理しています。
図1 企業の人権マネジメントの全体像および人権DDを構成する4つのステップ
<人権に対するコミットメント>
はじめに、人権マネジメントを推進するためには、人権尊重に対する自社の姿勢やコミットメントを対外的に示す人権方針を策定することが必要です。人権方針は企業の人権マネジメントの拠り所となるのに加えて、ステークホルダーとのコミュニケーションの手段としても位置付けられます。
本稿の主題である人権DDについても、定期的かつ継続的に取組む姿勢を人権方針の中で言及する必要があります。人権に対するコミットメントには、人権方針に記載した各種取組みを企業文化に組み込むためのプロセスの構築も求められます。人権方針それ自体の内容は比較的抽象度が高いものが多いため、各種規定や稟議プロセス等に人権方針でコミットする内容を織り込むことで、企業文化に根付かせる対応もセットで進める必要があります。
<人権DD>
次は、人権DDへの着手です。KPMGでは、人権DDへの対応を「(a)人権に対する影響評価」「(b)影響の防止、低減」「(c)モニタリング」「(d)コミュニケーション」という4つのステップから整理しています。これら4つのステップの概要および推進するうえでの実務上のポイントは後段で解説しますが、4つのステップをすべてカバーして初めて人権DDが完結する点には留意が必要です。
(a)~(d)までの一貫した4つのステップが人権DD対応のあるべき姿ですが、現実には「(a)人権に対する影響評価」のみをもって人権DDと誤解して取り組んでいる企業も見受けられます。
「(a)人権に対する影響評価」は後述するデスクトップ調査、社内関係者へのヒアリング、取引先や業務委託先等の社外ステークホルダーに対するアンケートやインタビューを通じて、人権に対する負の影響を特定するためのものであり、あくまでも人権DDの入口にすぎません。(b)~(d)と合わせて実施することで、負の影響の防止・軽減を図ることこそが人権DDの本質です。企業一丸となって人権DDを推進しサイクルを継続的に回していくためには、関係者の間で人権DDについての正しい認識を共有しておくことが重要です。
<苦情処理メカニズム>
最後に、人権DDへの対応と同時並行的に、苦情処理メカニズム(グリーバンスメカニズムともいう)の構築と救済に取組む必要があります。自身の権利が侵害されていると感じる個人が、その実態を報告し救済を求めるための通報窓口を整備するとともに、速やかにその状況を改善するための救済措置が図られる仕組みの整備が欠かせません。
以下では、図1で示した人権DDを構成する4つのステップに沿って、各ステップの概要およびそれらを推進するうえでの実務上のポイントを解説します。
2-2.人権DDを構成する4つのステップとそれらを推進する上での実務上のポイント
(a)人権に対する影響評価 - 潜在的な人権リスク・顕在化した人権リスクを区分する
人権に対する影響評価とは、事業活動に内在する潜在的な人権リスク(事業活動が人や社会に対して与える負の影響)を調査し、適切に把握・評価することを指します。具体的な実施方法は、各企業のリソースや取組みレベルに応じて異なりますが、例えば、公開情報や各種データベースを活用しデスクトップ調査を通じて人権リスクを特定する方法や、調達統括部・人事部・経営企画部などをはじめとする社内の関連部署にヒアリングをする方法、また、取引先や業務委託先等の社外ステークホルダーにSAQ(self-assessment questionnaire/調査票) に回答してもらう方法などが挙げられます。
これらの手法は、いずれも潜在的な人権リスクを網羅的に特定することに重きが置かれています。人権に対する影響評価に取組む際には、人権リスクを潜在的な人権リスク(事業活動を通じて人権侵害を引き起こす将来的な可能性)と顕在化した人権リスク(既に発生してしまっている人権侵害)に分け、意識的に区別することが効果的です。
潜在的な人権リスクおよび顕在化した人権リスクについて、指導原則17の解説文(commentary)は以下のように説明しています。
「人権リスクは、企業の人権に対する潜在的な負の影響であると理解される。潜在的な影響は防止あるいは軽減することを通して対処されるべきであり、一方で、現実の影響―既に生じたもの―は是正の対象となるべきである。」 |
本解説文を踏まえると、潜在的な人権リスクと顕在化した人権リスクは、図2のように整理することが可能です。
図2:潜在的な人権リスクと顕在化した人権リスクの整理
影響評価の実施過程で顕在化した人権リスクが特定されることも十分に考えられます。しかしながら、既に顕在化している人権リスクであれば、それは直ちに是正されるべきであり、内部通報制度や相談窓口に代表される企業の苦情処理メカニズムを活用しながら、解決を進める必要があります。例えば、上司からのハラスメントに悩まされている社員等がいる場合には、内部通報窓口への通報を促し、然るべき担当部署に事案を引き継ぐなど、個別事象に応じた是正措置を展開する必要があります。
(b)影響の防止および軽減 - 自社にとっての優先度を考慮しながら防止・軽減策に取り組む
(a)の影響評価を通じて、人権に対する負の影響を把握・特定した後は、負の影響を防止・軽減するための具体策に取り組む必要があります。本ステップで対応すべき内容は、(a)で把握・特定されるリスクや課題によって異なるため、画一的に論じることは困難です。一方で、指導原則19およびOECDガイダンス3.1には潜在的な負の影響の防止・軽減に向けた方向性が示されており、これらを企業実務の観点から具体的アクションとして捉え直すと、図3のように整理されます。
図3 人権に対する負の影響を防止・軽減するための主なアクション
例えば、サプライヤーにおいて潜在的な人権リスクが検出された場合には図表3の「各種施策の展開」に記されている業務委託契約書を見直し、人権尊重に関する条項を追加するといった措置が考えられます。
一方で、潜在的な人権リスクの顕在化を防止するという観点からは、広く「ガバナンスの確保」や「対応体制の確立」にも取組む必要があります。企業によって人権に対する意識、人的・時間的リソース、現状の取組みの深度などは異なるため、自社の状況を考慮し、対応に優先順位を付けることは重要ですが、中長期的には、これら全アクションに取り組む必要があります。
(c)モニタリング - 負の影響の防止・軽減策の実施状況をモニタリングし、有効性を評価する
自社にとって優先度の高い施策に着手したあとは、それら施策の有効性を適切なタイミングで評価し、(a)で把握・特定した人権に対する負の影響の解決に効果を発揮しているかを確認する必要があります。
確認のタイミングや方法は(b)の具体策の内容に応じて異なりますが、例えば、以下のような事例が想定されます。
(a)人権に対する影響評価を通じて、取引先の外国人技能実習生の仲介手数料問題がリスクの1つとして特定されたとします。このリスクに対する(b)防止策および軽減策としては、グローバル・スタンダードが要求する人権尊重の観点から何が問題であるかを研修/ワークショップを通じて関係者に啓発するとともに、取引先に対しては実習生が雇用に際して負担した仲介手数料を返還するよう要求することが想定されます。この場合、(c)モニタリングとしては、防止策および軽減策として実施した研修/ワークショップの実効性や、仲介手数料が返還された外国人技能実習生の割合を定期的に確認する、というアクションが想定されます。
人権DDは定期的かつ継続的な取組みを前提としているため、(b)防止策および軽減策に関しても、その効果や改善状況を定期的に把握する取組みが欠かせません。仮に、今回のケースで仲介手数料が返還されていない状況が継続するようであれば、取引の継続を見直す必要も想定されます。したがって、(c)モニタリングは、(b)防止策および軽減策への着手とセットで考えることが極めて重要です。
(d)コミュニケーション - 今後の課題を明確にしたうえでステークホルダーとコミュニケーションを図る
人権DD最後のステップは、(c)までの取組みを対外的に示し、自社にとって重要なステークホルダーとのコミュニケーションを図ることです。
企業にとって重要なステークホルダーのひとつである機関投資家は、企業価値を判断する重要な要素として人権リスクを捉えており、企業の人権への対応状況を開示情報やエンゲージメントを通じて確認しています。
また、最近では、銀行の投融資判断や取引先の選定プロセスにおいても企業の人権にかかる開示情報は活用されており、その重要性はますます高まっています。
一般的に多くの日本企業は取組みがある程度進んでから情報を開示する傾向にありますが、特に人権に関しては最初から求められるすべての要件を満たすことは困難です。毎年徐々に取組みを発展させることを前提に、対応出来ている部分から情報を開示するという対応に切り替える必要があります。情報開示を全く行わなければ、機関投資家や銀行をはじめとするステークホルダーは人権に対する取組みそれ自体がない、と判断する可能性もあります。
コミュニケーションの実効性を高めるうえでは、自社が認識する課題や次年度の対応計画・目標も併せて示すことが推奨されます。自社の現状をステークホルダーにしっかりと伝達し、得られたフィードバックを活かすサイクルを人権DDに取り込むこともコミュニケーションの一部を構成しています。
コミュニケーションを効果的に進めていくには「国連指導原則 報告フレームワーク」の活用が有効です。本フレームワークは、指導原則の立役者である故ジョン・ラギー氏が理事長を務めていたNGO団体 Shiftが発表しているもので、2017年には日本語訳も公開されています。
ヨーロッパ諸国の人権DD対応の法制化、EUの人権・環境DD指令案、経済産業省の人権尊重のためのガイドライン案の公表など、人権をめぐる外的環境は非常に速いスピードで変化しています。変化に柔軟に対応しつつ、実効性のある人権DDに取組むためには、企業として「ビジネスと人権」に関するさまざまなイシューを経営の「重要課題」として再認識したうえで、経営トップの号令のもと全社一丸となった対応を展開することが不可欠です。
執筆者
KPMGサステナブルバリューサービス・ジャパン
KPMGあずさサステナビリティ株式会社
岩井 美緒