ビジネスと人権~経営の「周辺課題」から「重要課題」へ~

企業は、事業活動に内在する人権に対する負の影響を適切に把握し、是正や救済措置を講じる等、リスク低減に向けた対応を深化させることで企業価値の毀損を防止する必要があります。この取組みのための第一歩は、「人権」を経営の「周辺課題」から「重要課題」へと認識を改めることです。

企業の事業活動に内在する人権に対する取組みのための第一歩は、「人権」を経営の「周辺課題」から「重要課題」へと認識を改めることです。

2011年に国連で採択された「ビジネスと人権に関する指導原則」を踏まえて日本政府は2020年10月に「ビジネスと人権」に関する行動計画(通称、NAP)を策定しました。行動計画は、企業規模や業種にかかわらず、日本企業に対する人権デュー・デリジェンス(以下、人権DD)の導入に期待を表明しています。さらに2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードには、「人権の尊重」という文言が明確に織り込まれ、特にプライム上場企業の取締役会には、中長期的な企業価値向上の観点にもとづき「人権の尊重」を経営の重要課題と認識したうえで、積極的かつ能動的に取り組むことが要請されています。

人権の尊重は事業活動を行うための大前提であることは、論じるまでもなく明らかです。従来、人権の尊重は、国家に課せられた「義務」と解されており、国の都合により個人の人権が制限される事態を防止することが主たるテーマでありましたが、事業活動のグローバル化により発生した人権への様々な負の影響への対処をめぐっては、当事者である企業の「責任」が直接的に追及されるようになりました。グローバル化の加速は、広域なサプライチェーン体制の確立や安価な調達に代表される多くのメリットを企業にもたらしました。一方で、調達先で児童労働や強制労働といった重大な人権侵害が発生していたとしても企業がその実態を体系的に把握することが困難であるがゆえに人権への負の影響の対処が不十分であるという状況が指摘されています。

特に機関投資家は企業価値の毀損に繋がるリスクとして、その状況を問題視しています。例えば、機関投資家向けに議決権行使の推奨やエンゲージメントなどのサービスを提供するFederated Hermes EOSは、企業とのエンゲージメント状況を四半期ごとにPublic Engagement Reportとして公表していますが、最新の2022年Q1レポートによると、「社会および倫理(Social and Ethical)」テーマの中で人権および労働に関するエンゲージメントの合計は34.9%であり、最も高い割合を占めていることが分かります。

ビジネスと人権~経営の「周辺課題」から「重要課題」へ~1

出典:Federated Hermes EOS 「Public Engagement Report Q1 2022」より抜粋のうえ、KPMGにて翻訳

機関投資家はグローバル・サプライチェーンを安定的かつ継続的に維持する上で「人権」を重要なリスク・ファクターと捉えています。企業は、機関投資家の「人権」に対する評価目線を意識しつつ、事業活動に内在する潜在的な人権リスク(事業活動が人や社会に対して与える負の影響)や顕在化した人権リスク(既に発生してしまっている人権侵害)を適切に把握し、是正や救済措置を講じる等、リスク低減に向けた対応を深化させることで企業価値の毀損を防止する必要があります。

お問合せ

日本企業が対峙する喫緊の課題 – 実効性のある人権DDへの取組み

潜在的および顕在化した人権リスクを把握し、リスク低減としての是正・救済措置を講じる一連のプロセスは、「人権デュー・デリジェンス」と呼ばれますが、この人権DDへの実効的な取組みこそ、今の日本企業が直面している喫緊の課題です。経済産業省が2021年11月に実施した「日本企業のサプライチェーンにおける人権に関する取組状況のアンケート調査」集計結果によると、人権DDを実施している企業は回答企業の約半数にあたる52%にとどまっています。人権DDの実施企業であっても実施の対象範囲は限定的で、人権リスクが懸念される間接仕入先まで対象としている企業は約25%しかありません。2次・3次の調達先等を含み、自社のバリューチェーンにおける人権リスクを包括的に把握するためには、実効性のある人権DDプロセスの構築が急務と言えます。

実効性のある人権DDプロセスの構築に向けて – UNGPsロードマップからの示唆

実効性のある人権DDプロセスの構築に当たっては、国連の「UNGPs 10+ ビジネスと人権の次の10年のためのロードマップ」が参考になります。本ロードマップは、指導原則の策定から10年が経過したのを契機に企業が参考にすべき指針として国連の人権理事会の傘下に設置された「ビジネスと人権ワーキング・グループ」が、2021年11月に公表した文書です。指導原則に一層の実効性を持たせるべく、国家・企業・市民団体等の人権の尊重を推進するステークホルダーが具体的な取組みを展開する際に指針とすべき8つの行動分野が示されています。本ロードマップの特徴は、目標の内容に応じて目標達成のために必要なステークホルダーを特定し、各ステークホルダーが推進すべき具体的アクション(illustrative action)を示していることです。企業が参考にすべきポイントは数多く記載されていますが、特に注意を払うべきは「行動分野3」の内容です。

ビジネスと人権~経営の「周辺課題」から「重要課題」へ~2

出典:国連ビジネスと人権に関するワーキング・グループ 「UNGPs 10+ ビジネスと人権の次の10年のためのロードマップ」より抜粋のうえ、KPMGにて翻訳

行動計画3の目標3.2には、「コーポレートガバナンスおよびビジネスモデルへの人権デュー・デリジェンスの組込」が定められており、目標達成を推進すべきステークホルダーとしては、「国家(States)」「企業(Business enterprise)」「サステナビリティ報告のためのプラットフォーム(Sustainability reporting platforms)」「機関投資家およびその他の金融機関(Institutional investors and other financial actors)」「ビジネスと関係性をもつ国連機関(UN entities who interact with business) 」の5者が特定されています。

「企業」に対しては、「企業文化・ビジネスモデル・企業戦略のなかに人権尊重の精神を織り込むに当たって、コーポレートガバナンスやリーダーシップ(取締役会や執行レベルも含む)がどのように機能しているかを示すこと」および「人権に専門性を有する人材の取締役会への登用の検討」という2つの具体的なアクションが提示されています。加えて、「機関投資家およびその他の金融機関」に対して投資先企業へのアクションが示されている点についても留意が必要です。本目標は投資先企業に対して「国連の指導原則と適合するビジネスモデルを確保するために適切な監督やガバナンスを効かせる」ことを「機関投資家およびその他の金融機関」に求めており、企業に対する投資家サイドからの人権に対する取組み強化の要請がさらに強まる可能性があります。

終わりに

日本企業にとっての喫緊の課題は、実効性のある人権DDプロセスを構築したうえで経常的にそのサイクルを回していくことです。そのためにはまず、「ビジネスと人権」に関する様々なイシューは、経営の「周辺課題」ではなく経営の「重要課題」であるとの認識に改めることが重要です。そのうえで前述したロードマップが示すとおり、人権に専門性を有する人材を確保し、人権リスク低減に向けた執行側の対応状況を取締役会レベルがモニタリングする必要があります。金融機関等を含む投資家サイドからも人権に対するガバナンス強化の要請が強まる可能性があり、資本市場から適切な評価を得るためにも、企業として自社への取組みについてエンゲージメントを強化していく必要があります。

実効性のある人権DDを実施するためには、ガバナンス体制の強化に加えて、グローバルに広がるバリューチェーン全体に内在する潜在的な人権リスクや顕在化した人権リスクを適切に把握する「人権への影響評価(人権アセスメント)」に取り組まなくてはなりません。企業のバリューチェーンを構成するサプライチェーンの構造を丁寧に紐解き、人権アセスメントを実施することは地道で非常に骨の折れる取組みです。そのうえ、“この通りに進めれば万事解決”というような全企業共通の指南書があるわけでもないため、他社の取組みを参考に取り入れつつも自社の実態に沿う独自の方法論を検討する必要があります。

現に、人権アセスメントの実施方法や対応の優先順位の考え方に頭を悩ませている企業は多く、先に紹介した経済産業省のアンケート調査によると人権DDを実施していない理由の32%は「実施方法が分からない」という結果となっています。

人権DDやその出発点となる人権アセスメントは企業実務に即してプロセスを構築することが極めて重要です。その実施方法については2022年7月下旬頃の発信にて、詳しく解説予定です。

執筆者

KPMGサステナブルバリューサービス・ジャパン
KPMGあずさサステナビリティ株式会社
岩井 美緒