はじめに
現代社会において、大学、企業、政府が掲げる理想の人物像はおおむね一致しています。自律して考え、不透明な社会のなかで自ら未来を切り拓くことのできる人、といったものです。しかし、社会は、本当にそのような人を育てているでしょうか。
大学では、育成すべき能力を設定し、その能力をいかに高め、評価・保証するかという教育改革が進められています。企業はそこで育った学生を選抜し、入社後はさらに必要な能力やスキルを研修によって高めます。社会に出れば、組織の目標や評価のもとで仕事をし、経験を重ねていくことになります。
「自律して考える人を育てたい」という理想を掲げながら、実際に社会が育てているのはどのような人なのでしょう。本当に自分の頭で考える人が育つ仕組みをつくっているのでしょうか。
本連載では、大学、企業、社会に見られるさまざまな現象から、私たちが掲げる理想と、実際に人を育てている仕組みとの間に何が起きているのかを観察します。そして、「自律して考え、未来の価値をつくる人」を育てるとはどういうことか考えます。
主体性が生まれるところ
東北のある地域で、自然環境の保全に取り組む研究者の講演を聞きました。
その地域では、希少な生物の保護と生物多様性の維持に取り組んでいます。研究活動の一環として、地域の小学生に身近な自然を知ってもらおうと、子どもたちと一緒に生物多様性を調査したそうです。
すると、活動に参加した子どもたちが、自発的に「少年少女自然調査隊」と名付けたクラブをつくり、自然探検を始めました。小学生だけでは卒業すると活動から離れてしまうからと、中学生も参加する小中学生の調査隊になりました。そのなかには、さらに生態系への関心を深め、地元の高校に進学した後も部活動で専門的な調査研究に取り組んでいる子がいます。その高校での研究活動は、国際的なコンテストでも入賞したそうです。
この話を聞いたとき、こういう子どもたちは、大人になってもさまざまな場所で自分の道をつくっていくだろうと思いました。そこで研究員に、「まさに主体性が育っているように思うけれど、教育関係から注目されないのか」と聞いてみました。ところが本人は、教育活動としてはほとんど意識していないようでした。そもそも「主体性を育てる」ために取り組んでいるわけではありません。まだ何に関心を持つかも分からない子どもたちに自然に触れてもらい、そこから自然や生態系に興味を持ってくれたらいい、と話していました。
教育界では、「主体性をどう育てるか」が盛んに議論されています。その一方で、主体性を育てようとしていない場所で、子どもたちが自分たちで活動を始め、その先へと進んでいました。
2つの主体性
先日、ある会合で、各地の大学生が地域とのかかわりについて発表する場がありました。
聞いていると、複数の学生のうち1人を除いた全員が、ほぼ同じような話をしました。自分が地域のどこに問題を感じたのか。地域の人たちとどのような関係を築いたのか。そこで何に取り組んだのか。そして、なぜ地域に対する問題意識を持つようになったのか。
1人だけ、まったく違う話をした学生がいました。自分はこの地域のここが好きだ。普段は友人たちとこんなふうに過ごしている。地域の大学で暮らす一番の魅力は、とにかく自然だ。
その学生は、もともと農業に興味があって地方の大学に進み、農家に入り込んで農業をしていると言います。高校まで暮らした都会とは違い、田舎での生活が自分には合っている。だから、この地域で働くことに決めたと話しました。
学生たちは、異なる地域、異なる大学で、それぞれが地域について真剣に考え、地域の人と関係をつくり、実際に行動していました。何かが足りないどころか、むしろ非常にしっかりしています。それでも、私はその発表を聞きながら強い違和感を覚えました。
大学は地方創生政策のなかで、地域の拠点として地域を牽引する人材を育てることを求められてきました。そのため、地域との関係をつくり、地域を題材に学ぶ教育活動が全国の大学で行われています。地域課題を題材にした課題解決型のプロジェクトも、その代表的な方法の1つです。
「地域の課題を見つける」「地域の人と関係を築く」「課題解決に取り組む」
学生たちの語りは、この地域連携型教育が描く学生像とよく重なっていました。
一方、自分の「好き」を語った1人の学生は、大学の先生たちがもっと地域との結びつきに関心を持ってくれたらいいのに、と話していました。また、大学では地域課題に取り組んだものの、卒業後は東京で就職して自分の可能性を試したいと語る学生がいたのに対し、その1人は、自分には田舎での暮らしが合っているから、その地域に残ると決めていました。
もちろん、この発表だけで、学生の考え方が大学教育によって形づくられたと断定することはできません。発表テーマや学生の選ばれ方も影響しているでしょう。ただ、異なる地域、異なる大学の学生たちの語りに、よく似た型が表れていたことは印象に残りました。
目標適合型という教育設計
では、この違和感はどこから来るのでしょうか。
従来の学校教育では、初等教育の段階から、知識を習得し、与えられた問題に正しく答えることが重視されてきました。その反省から、現在では探究学習やPBL(Project Based Learning:課題解決型学習)など、正解のない課題に取り組み、自ら問題を発見し、他者と協働する教育が重視されています。
知識を詰め込むだけではいけない。
正解のない課題に取り組ませよう。
自ら問題を発見させよう。
他者と協働させよう。
そして、主体性を育てよう。
教育の内容や学び方は大きく変わってきました。
従来型の教育を単純化すると、
「この問題を解きなさい」
➡勉強して、正解する
➡高く評価される
という構造です。
一方、現在のPBLの典型的な例をあげると、
「この地域課題について考えなさい」
➡調査し、協働し、提案し、実践する
➡高く評価される
となります。
求められている能力も、学習内容も大きく異なります。
しかし、「何を目指すべきかは外から与えられ、その目標に向けて上手に取り組める人を評価する」という基本的な構造は共通しています。
本連載では、このように教育する側が目標を設定し、その目標に向けた行動を促し、到達の度合いを評価する設計を、便宜的に「目標適合型」と呼びます。
目標を設定してその到達度を確認する方法は、多数の人を対象に一定の内容を共通して教える制度教育では、ある程度の役割を果たします。しかし、「自律して考える人を育てる」という目的に対し、同じ設計をそのまま使えるのでしょうか。
先ほどの2つの事例に戻ると、違いはかなり明確です。
自然調査隊の子どもたちは、誰かから「やるべきこと」を与えられたわけではありません。自然に触れて興味を持ち、自分たちで活動を始めました。会合で発表した1人の学生も、自分の農業への関心や、その土地での暮らしを起点として、自分と地域との関係や進路をつくっていました。一方、他の学生たちも十分に主体的です。地域課題という題材のなかで自ら問題を見つけ、人を巻き込み、積極的に行動しています。課題解決力も、協働力も、実行力も高いです。
両者の違いは、何に向かうのかを誰が決めているかです。
前者(調査隊の子どもたち・1人の学生)は、何に関心を持ち、何をしたいのか、どこへ進むのかを自分で見つけています。後者(他の学生たち)には、向かうべき領域として「地域」があり、そこで「課題を見つけ、解決する」という枠組みが先にあります。そのなかで、自ら考え、行動しています。
現在の教育では、この2つがともに「主体性」として扱われているように見えます。
もちろん、与えられた課題に対して真剣に考え、人を巻き込み、実行する力を高めることにも意味があります。目の前にあることに取り組んでみた結果、そこから自分の関心や進む道を見つけることが往々にしてあるからです。ただし、「与えられた課題を上手に解く力」と、「そもそも何を問題とするのかを自分で考え、自ら進む方向をつくる力」は同じではありません。与えられた目標にうまく取り組めたこと自体を、「自律して考え、自ら未来を切り拓く人が育った」とみなしてよいのか、ということです。
実はこの問題は、新しいものではありません。
教育哲学者のジョン・デューイは100年以上前、教育を将来の何かに備えるための準備ではなく、連続的な成長の過程として捉えました。何を学ばせ、どこまで到達させるかだけではなく、学ぶ人自身の経験から何が生まれ、そこから何へ向かうのか。その過程をどう支えるかを教育の問題としたのです。
以前、学生に教育についてインタビューした際、1人の学生が「アクティブ・ラーニングという時点で受け身だ」と言ったことがあります。その学生がデューイの教育論を念頭に置いていたわけではないでしょう。しかし、学ぶ者を「主体的にさせる」という発想が抱える矛盾を、この言葉は驚くほど端的に表しています。
PBLや探究学習は、従来の知識伝授型教育を見直し、学ぶ者自身が問い、考え、行動することを重視してきました。それならば、「与えられた目標を主体的にやり遂げる力」と「自ら何に向かうかを見出す力」を、同じ「主体性」とみなしたままでいいのでしょうか。
(続く)
執筆者
KPMGコンサルティング
スペシャリスト(リードスペシャリスト) 田中 智麻