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      日本の社会インフラ業界は、老朽化の進行と点検・保守を支えてきた熟練技術者(以下、熟練者)の大量退職という避けられない課題に直面しています。これまで現場を支えてきた熟練者の高度な「暗黙知(ノウハウ)」をいかにして次世代へ継承していくかは、単なる効率化を超えた社会課題です。

      本記事では、暗黙知を「状況把握(データ)」と「診断(ロジック)」に分解し、「形式知で到達できる業務品質と、目指すべき業務品質との差分(ギャップ)」として定義したうえで、判断プロセスを段階的に再現可能な形へ移行していくアプローチを提言します。公的機関のデータが示す危機的状況を背景に、感覚的な判断を客観的なルールへと転換させ、説明責任と安全性を両立した「持続可能な技術継承」の具体的な道筋を解説します。



      1.熟練者の減少と技術継承の現実

      日本の道路・鉄道・上下水道等の社会インフラは、かつてない危機的状況にあります。国土交通省によれば、建設後50年以上を経過する道路橋(橋長2m以上、約73万橋)の割合は、2023年3月時点で約37%、2030年3月には約54%、2040年3月には約75%に達すると見込まれています※1

      一方で、これらを維持管理する技術者の確保は発注者・受注者の双方で困難を極めています。総務省の調査を基にした国土交通省による集計では、建設業就業者のうち55歳以上が約36%を占める一方、29歳以下は約12%にとどまります※2。全産業平均と比べても高齢化が先行しており、今後10年で技能者の大量離職が現実の日程として迫っています。

      これまで、現場の安心・安全を支えてきた熟練者が持つ高度な暗黙知は、実務を通じて若手へと時間をかけて継承されてきましたが、急速な生産年齢人口の急減により、この「人から人へ」という伝承モデルは物理的な限界を迎えようとしています。熟練者の退職とともに、言語化されていない暗黙知が社会から失われようとしています。

      2.なぜAIだけでは解けないのか:社会インフラ業界における2つの壁

      こうした技術継承の課題に対し、AIは有力な解決策として期待されています。画像解析や異常検知等、AIが現場業務で支援できる余地は大きく、実際に各業界では導入が進んでいます。独立行政法人情報処理推進機構(IPA)『DX白書2023』では、DXに取り組む企業の割合は情報通信業や金融業/保険業で相対的に高く、業種間で開きがあることが示されています。インフラ・建設分野でも画像解析等の導入は進みつつありますが、点検の判定そのものといった「判断領域」への適用は、他業種に比べ慎重に進められているのが実情です。

      この慎重姿勢の背景には、社会インフラ業界の人命に関わる「安心・安全への責任」という合理的な懸念があります。

      壁1:意思決定における責任の所在

      • AIが「異常なし」と判断したにもかかわらず、後に重大な事故が発生した場合、その判断に誰が責任を負うのか、という論点は簡単ではありません。安全性が求められる領域であるほど「AIをどう使ったか」を含めた責任の整理が必要になります。

      壁2:判断プロセスの説明困難性

      • 政府の『AI事業者ガイドライン』(第1.2版、2026年3月)では、AIの利用にあたり透明性やアカウンタビリティの確保が求められています。また2025年には、AIの研究開発と活用の推進を図る法律(「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律」 内閣府 令和7年法律第53号)も成立し、事業者に求められる姿勢が国として示されました。なぜAIがその判断に至ったのかを説明できなければ、行政機関や住民に対する説明責任を十分に果たすことは困難です。
      • 安全性が最優先される領域では、業務品質の高さだけでなく、人が納得できる判断プロセスであることが重要です。

      ただし、ここで直視すべきは、判断根拠を説明できないのはAI固有の問題ではない、という事実です。熟練者もまた、自らの判断根拠をすべて言語化できているわけではありません。これまでは「経験を積んだ人が判断している」という事実そのものが、判断の信頼性を支える要素として受け入れられてきました。しかし、その判断がどのような観察や経験、知識に基づいているのかが、組織として十分に整理・共有されてきたとは限りません。

      社会インフラ業界におけるAI活用の本質的な課題は、「AIを導入するかどうか」ではなく、AIが担う役割と人間が担う役割を適切に整理し、責任と説明のあり方をあらかじめ設計しておくことです。その前提として「暗黙知の形式知化」が不可欠です。

      【社会インフラ分野におけるAI活用の2つの壁】
      Japanese alt text: 社会インフラの暗黙知を継ぐ―再現可能な技術継承の進め方_図表1 出所:KPMG作成

      3.暗黙知の正体:「業務品質の差分」を埋めるための知識

      「暗黙知」は本来、経験や実践のなかで培われた言語化の難しい知を指す概念ですが、本稿では、そのうち「形式知化し得る領域」に対象を絞ることが出発点になります。すべてを言語化しようとすれば対象は際限なく広がり、また目的が曖昧なまま知見を収集・文書化しても、業務判断に使える資産にはなりません。

      重要なのは、まず「どの業務で、どの判断を再現したいのか」という具体的なユースケースを定めることです。たとえば、橋梁点検における健全性判定、補修優先度の判断、異常兆候の見極めなど、目指すべき業務品質を明確にすることで、初めて形式知化すべき暗黙知の範囲が定まります。ここでいう業務品質には、単なる判定精度だけでなく、判断の再現性、説明可能性、例外対応の妥当性も含まれます。

      このように捉えると、暗黙知とは、「現在のシステムやマニュアルなどの形式知で到達できる業務品質」と、「組織として目指す業務品質」との差分を埋めるための知識と定義することができます。この「差分」は、単なる知識量の不足ではなく、既存のシステムやマニュアル、記録データだけでは捉えきれていない着眼点や、複数の情報を組み合わせて判断するロジックが残っている状態です。「暗黙知の形式知化」とは、熟練者の知見を網羅的に集める作業ではなく、特定の業務判断に必要な差分を見極め、再現可能な形へ構造化する取組みだといえます。

      【暗黙知の捉え方】
      Japanese alt text: 社会インフラの暗黙知を継ぐ―再現可能な技術継承の進め方_図表2 出所:KPMG作成

      この「差分」を「状況把握」と「診断」の2要素に解剖し、構造化します(熟練者の判断をデータとロジックに分解する考え方)。

      【暗黙知の構造化】
      Japanese alt text: 社会インフラの暗黙知を継ぐ―再現可能な技術継承の進め方_図表3

      状況把握(データ):情報の特定能力

      • 現場の膨大な情報から、既存のシステムやマニュアル、記録データだけでは捉え切れていないが、判断に影響を与える変数を特定する能力。
      • 熟練者は無意識のうちに、損傷の形状、周辺の湿潤状態、あるいは過去の補修箇所など、判断に影響を与える「重要な変数」を取捨選択しています。

      診断(ロジック):情報の処理能力

      • 特定した変数をどう組み合わせ、「なぜその対策が必要か」を因果関係に基づいて判断する能力。
      • 熟練者は経験に基づき、「主桁部のひび割れに錆汁を伴い、同一箇所で前回からの進行が見られる場合は内部鋼材の腐食が疑われる」といったように、原因を推定し、対策の要否や緊急度を判断しています。

      これまで「熟練者の勘」や「暗黙知」の一言で片付けられてきたものは、実際にはこうした「状況の把握(データ)」と「診断ロジック」に分解して捉えることができます。暗黙知を単なる「勘」ではなく「着眼点と判断ルールの組み合わせ」とすることで、技術継承は組織的な「業務設計」のテーマとして捉えられるようになります。こうして判断基準が構造化されてはじめて、AIやデジタル技術も現場の判断を支援する仕組みとして実装しやすくなります。

      なお、本稿では「技術継承」を目的としているため、「目指すべき業務品質」を熟練者の判断として定義しましたが、熟練者の判断が常に正しいという保証はなく、熟練者間・同一人物内であってもばらつきは存在します。したがって形式知化のプロセスでは、熟練者の判断をそのまま正解として固定するのではなく、検証対象となる仮説として扱う必要があります。妥当性の裏付けには、点検記録のような判断結果だけでなく、詳細調査結果、その後の劣化進行の実績、補修時に確認された内部状態といった、判断とは独立した事実を突き合わせることが不可欠です。この検証プロセスを経てはじめて、個人の経験則は組織で再利用可能なルールへと転換されます。

      4.持続可能な技術継承の進め方:段階的な役割分担と形式知化

      暗黙知を継承可能な形に変えるには、熟練者の判断をすべてAIへ置き換えるのではなく、人とAIの役割を段階的に見直していく必要があります。特に社会インフラ業界のように安全性が最優先される領域では、判断の根拠を検証しながら、慎重に適用範囲を広げていくことが重要です。

      【段階的な役割分担と形式知化の進め方】
      Japanese alt text: 社会インフラの暗黙知を継ぐ―再現可能な技術継承の進め方_図表4 出所:KPMG作成

      フェーズ1:AIによる「状況把握」と、人による「診断」

      • AIは客観的な事実(変状候補等)の特定に専念し、人間は最終的な判断(例:補修の要否や対応の優先度)を担います。
      • この段階では、AIは人に代わる判断主体ではなく、客観的事実を特定する機能として位置付けます。

      フェーズ2:判断基準の特定と妥当性検証

      • 同一の対象について、既存の点検要領やマニュアルに基づく判定と、熟練者の判定を並行して行い、突合します。判定が一致しなかった箇所に絞って、「どの情報を見て、なぜその結論に至ったか」をヒアリングし、判断ロジックを構造化します。特定した基準は、詳細調査結果やその後の劣化進行の実績と照合して妥当性を検証し、個人の経験則を組織的なルールへと転換します。
      • この段階でも、AIは判定主体ではなく、突合対象の特定や判断記録の構造化を担います。

      フェーズ3:診断ロジックの順次自動化

      • 検証されたロジックを、根拠を追跡できる形式(判断ルールや決定木等)で実装します。ここで明示的なルールを選ぶのは、説明責任を果たすうえで判断根拠の追跡可能性を優先するためです。
      • 人は「診断結果の意味を理解し、承認する」役割へ移行します。重要な点は「結論を提示するだけでなく、人がその判断根拠を理解し、説明できる状態を維持することです。

      このように段階的なアプローチをとることで、担い手が減少するなかでも点検体制を維持しつつ、判断根拠を追跡し、人が説明できる状態を保つことができます。

      重要なのは、本稿のアプローチは、熟練者の知見を網羅的に集めるものではありません。対象を既存の形式知との差分に限定すること、特定した基準を実績データとの照合で裏付けること、運用のなかで更新し続けること、この3点が形式知化の要件です。この3点を欠いたまま知見を集めれば、ルールは際限なく増え、妥当性を確認できないまま、実際には活用されない文書として残ります。

      5.橋梁点検を例に見る、ギャップ特定のアプローチ

      形式知化のイメージを具体化するために、橋梁点検を例に整理してみます。

      橋梁の健全性判定では、単一の事象だけを見て結論を下すことはなく、複数の情報を重ねた総合的な判断が求められます。たとえば、ひび割れがあるという事実だけではなく、その位置が主桁なのか床版なのか、周囲に錆汁が見られるか、湿潤状態が続いているか、剥離や浮きの範囲はどの程度か、といった複数の要素が合わさって、補修の優先度や危険度が判断されます。

      ステップ1:現状の形式知の適用

      • 「損傷程度の評価区分に従い、ひび割れ幅と密度から損傷程度を判定する」といった、点検要領に定められた既存ルール(形式知)を適用します。

      ステップ2:差分の特定

      • 要領上の損傷程度からはII(予防保全段階)と整理される箇所に対し、熟練者がIII(早期措置段階)と診断したケースを抽出します。ここに「既存ロジックでは到達できない業務品質の差分」が現れます。

      ステップ3:差分を埋める因果の特定

      • 熟練者に「なぜIIではなくIIIなのか」をヒアリングします。「錆汁を伴っている」「主桁の支間中央下フランジ付近である」「同一箇所で前回からの進行が確認できる」といった、既存ロジックに含まれていなかった変数と判断基準を特定し、組織で共有可能な判断基準として構造化します。

      このように、既存ルールと熟練者判断の差分を起点にすることで、暗黙知を単なる「勘」ではなく、検証可能な判断基準として整理できます。

      6.KPMGが支援する「知の構造化」:実装可能な技術継承へ

      前節までに述べたとおり、判断基準を「データ」と「ロジック」に分解し、既存の形式知との「差分」を特定するプロセスは、説明責任と安全性を両立するうえで有効です。技術単体では説明責任と安全性の壁は越えられず、責任と説明の枠組みを設計したうえで、判断根拠を引き出し、実績で裏付けるという一連の流れが必要になります。

      熟練者の知見を言語化しようとする営み自体は、これまでも多くの現場で行われてきました。しかしそうした取組みは、個人の経験を記述するところでとどまりやすく、組織として再利用できる判断基準や、デジタル技術へ接続可能なルールへと転換されないままとなることも少なくありません。重要なのは、知見を「残すこと」そのものではなく、それを再現性・説明可能性・運用可能性を備えた形で組織に実装することです。

      私たちは、このような技術継承を実装するためには、「責任と説明の設計」「知見の特定と構造化」「実績データによる検証」という3つの仕組みが必要だと考えています。

      その実現に向けて、KPMGでは責任と説明の枠組みを支援する「KPMG Trusted AI」、熟練者の知見を引き出す対話型AIエージェント、実績データとの照合を支援する解析基盤「Kc-KNIGHT®」を組み合わせて活用しています。

      【KPMGが支援する「知の構造化」】
      Japanese alt text: 社会インフラの暗黙知を継ぐ―再現可能な技術継承の進め方_図表5 出所:KPMG作成

      AIガバナンス-KPMG Trusted AI framework-

      • AIを責任ある倫理的な方法で設計・構築・展開・使用するための枠組みです。説明可能性、透明性、説明責任といった観点を、AIのライフサイクル全体にわたって確保します。
      • 形式知化に着手する前段でこのフレームワークを適用し、「判断のどこまでをAIに委ね、どこから人が責任を負うのか」という役割分担と、判断根拠を記録・追跡する方法をあらかじめ定めます。
      • 「意思決定における責任の所在」に対応し、説明責任の要件を後付けで満たそうとする手戻りを避け、暗黙知を検証と説明に耐える判断基準へ引き上げる前提が整います。

      暗黙知の形式知化エージェント

      • 生成AI技術を活用した対話型エージェントです。熟練者との自然な対話を通じて多様な角度から深掘り質問を行い、回答を構造化データへ変換します。
      • 「判断基準の特定」で用います。既存の点検要領による判定と熟練者の判定が一致しなかった箇所を対象に、「どの情報を見て、なぜその結論に至ったか」を問い、着眼点(データ)と判断ロジックに分けて記録します。
      • 熟練者の知見を、場当たり的なメモや属人的なコメントとして残すのではなく、後続の検証や運用設計につなげられる粒度で体系化することにあります。これは第2の壁である「判断プロセスの説明困難性」に、判断根拠の言語化という側面から対応するものです。また、暗黙知の形式知化は不断の取組みであり、多数いる熟練者へのヒアリングの効率化を実現します。

      Kc-KNIGHT(AIによる設計開発業務の効率化・高度化)

      • 日報や技術報告書など、これまで分析対象になりにくかった非構造データを解析する基盤です。
      • ヒアリングで整理した仮説の裏付け工程で用います。熟練者が挙げた着眼点が、実際の記録のなかにどのような表現・頻度で現れているかを可視化します。
      • 仮説の検証に必要な材料を、埋もれた文書のなかから引き出せます。個人の経験則を、実績に裏付けられた組織のルールへと高める工程が成立します。

      KPMGのアプローチの特徴は、これらを個別の手法として並べるのではなく、一連の流れとして統合している点にあります。第1に、責任と説明の枠組みを先に置いたうえで技術の適用を検討すること。第2に、知見を網羅的に集めるのではなく、既存の形式知との差分に対象を絞ること。第3に、特定した基準を実績データとの照合によって裏付け、運用のなかで更新し続けることです。技術継承は、これによって「知見の共有」にとどまらず、特定・体系化・裏付け・実装までを見据えた組織的な知の構造化へと進みます。

      7.結び:持続可能なインフラ保守に向けて

      社会インフラ業界が抱える暗黙知の消失は、放置すれば社会の安全性を揺るがす重大な問題です。しかし、この課題に向き合い、これまで個人に属していた暗黙知を組織で共有・再利用可能な「デジタル資産」へと変換することは、組織全体の判断品質を平準化し、新たな保守体制を築く好機でもあります。

      重要なのは、「AIをどう導入するか」という手法の議論に先立ち、まず「現場の判断基準をどう体系化し、次世代へつなぐか」という本質的な課題に向き合うことです。この着実なステップこそが、安全性が最優先される社会インフラ業界において、信頼されるAI活用を実現し、持続可能な社会インフラを支える基盤となります。

      事後保全から予防保全へ転換した場合、今後30年間の維持管理・更新費は大幅に抑えられるとの試算が示されています※3。判断品質のばらつきは、この予防保全の前提そのものを揺るがします。適切な時期に適切な措置を選択できるかどうかが、そのままライフサイクルコストに跳ね返るからです。技術継承は、安全の問題であると同時に、限られた財源で社会インフラを維持していくための財政課題でもあります。

      執筆者

      KPMGコンサルティング
      アソシエイトパートナー 新井 隼人
      シニアマネジャー 光武 慧

      Kc-KNIGHT®は、報告書等に記載された文章に対し自然言語処理を用いて分析し、属人化しがちな企業の知見を埋もれさすことなく活用します。

      【業界展望】人手不足や高齢化、インバウンド需要の拡大などの社会課題に向き合い、インフラ業界の未来を支える変革のあり方を語ります。

      ビジネスの変革に、責任と信頼あるAIを

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      KPMGコンサルティング

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