本稿は、きんざいOnline 「レンダーデューデリジェンスが示す人事リスクとPMI対応」(2026年7月17日公開)に掲載された記事を許諾を得て転載しています。他への転載・転用はご遠慮ください。
1.レンダーDDで重要性が増す人事論点
近年、金融機関が融資判断のために実施するレンダーDDでは、人事に関する論点が増加している。従来のM&Aでは、財務・税務・法務DDが中心だったが、足元では、事業計画が本当に実現可能なのかという観点から組織や人材に関する関心が高まっている。
背景には、企業価値の源泉が、有形資産から人材・技術・組織能力といった無形資産へ移行していることがある。特に専門人材やキーパーソンへの依存度が高い企業では、人事リスクがそのまま事業リスクへ転化しやすい。賃上げ圧力や人材獲得競争の激化により、人材の確保・維持に伴うコスト負担も増している。特に未払い残業代や労務コンプライアンス問題は顕在化した場合、是正コストや訴訟リスクを通じて収益に影響する。
こうした変化は、実際のレンダーDDにも表れている。筆者のクライアントであるファンドが買い手となった案件では、銀行団から約190問の質問事項が提示された。そのうち、人事DDを実施していなければ十分に回答できなかった質問が19問に及んだ。内容は、採用・離職状況、人材育成、人事制度、報酬設計、キーパーソン依存の有無など多岐にわたっていた。
興味深かったのは、これらの論点について、財務・税務・法務DDに加え、ビジネスDDを実施していたとしても、なお十分に把握し切れなかった点である。成長戦略に合理性があったとしても「その戦略を実行できる組織・人材がそろっているのか」「買収後もその体制を維持できるのか」といった点は、形式的な人事資料や経営陣による説明だけでは見極めが難しいのである。
そのため、組織構造、人材構成、人事制度、労務管理の実態などを分析し、それらが事業計画や将来の財務数値へどのような影響を与え得るかを整理する必要がある。人事DDは、事業計画の実行可能性を検証する役割を担っているといえる。
2.M&A後に表面化する人事リスク
M&A後に発生する組織・人材上の問題の多くは、DD段階で兆候が確認されている(図表1)。問題を把握しただけでは、M&A後の混乱を防ぐことはできない。DDで確認した論点に対し、PMI初期段階でどのような優先順位を付けて対応するのかが重要になってくる。
【図表1】DDで把握された人事リスクとM&A後の影響例
(出所)筆者作成(図表2も同じ)
ただし、PMI初期段階にそれらを一律に進めるわけではない。実務上は、制度改定・統合や文化融合よりも、キーパーソンの離職防止や従業員が抱く不安への対応など、事業運営を安定化させる取り組みを優先するケースが多い。
例えば、事業運営が特定の経営陣や部門長に依存している企業では、DD段階で「属人化」が論点となる。しかし、M&A後の経営方針や各自の役割、業務や処遇が不透明なままPMIへ移行すると、キーパーソンが将来への不安を抱え、M&A後、早期に離職するケースがある。実際、海外企業買収後にキーパーソンが離職し、事業計画に著しく負の影響を与えた事例も存在する。
また、人事制度や就労条件の差異を整理しないまま組織統合を進めた結果、従業員の不満が高まり、生産性の低下や離職率の上昇につながったケースも少なくない。未払い残業代問題や、管理職として扱っていた従業員が労働基準法上の管理監督者と認められない「名ばかり管理職」問題などについても、PMI初期段階に対策を講じなければ、是正勧告や追加コストへ発展する可能性がある。
つまり、DDは単なるリスク調査ではなく、PMIで何が起きるかを予見するプロセスでもある。PMIを買収後の別工程として切り離すのではなく、DDで把握した論点をPMIでどう処理するかという視点が重要になってくる。
3.PMI初期段階で優先すべき人事対応
PMI初期段階で重視される論点は、業種や統合形態、国内・海外案件の違い、カーブアウトの有無などによって異なる。その中でも「キーパーソンのリテンション」「従業員コミュニケーション」「労務課題への対応」は、事業を止めないという観点から優先的な対応が求められる代表的な論点である。これら三つの論点について、以下で整理する。
(1)キーパーソンのリテンション
PMI初期段階において最も優先度が高いテーマの一つが、キーパーソンのリテンションだ(図表2)。中堅・中小企業やオーナー企業の場合、人脈や技術、組織の統率などが特定個人に依存しているケースが少なくない。また、PEファンド傘下の企業やスタートアップ企業では、外部から招聘された経営陣や執行役員が事業運営の中核を担っている場合も多く、株主変更やストックオプションの清算を契機として離職リスクが高まりやすい。
【図表2】リテンション施策の種類
そのため、PMI初期段階では、まずDDを通じて「誰が事業継続上のキーパーソンなのか」を見極める必要がある。実務上は単純に役職だけでは判断できない。重要顧客を抱える営業責任者や、製品開発を支える技術者、現場を実質的に統率している管理者などが、代替困難な人材となっている場合もある。もとよりリテンション施策は、買い手側だけで自由に進められるものではない。売り手側との調整が必要となるケースも多く、誰に、どのタイミングで、どのようなメッセージを伝えるかを慎重に設計する必要がある。
なお、リテンション施策というと、リテンションボーナスや報酬の増額が想起されがちだ。しかし、実際には金銭的処遇だけで離職を防ぐことは難しい。特に経営人材や高度専門人材は「買収後にどのような役割を担うのか」「どのような機会があるのか」といった点を重視する傾向が強い。そのため、経営陣との個別面談を通じて「なぜあなたが必要なのか」を丁寧に伝えることが欠かせない。
(2)従業員コミュニケーション
PMI初期段階では、従業員の不安をいかに抑えるかも重要となる。M&A発表直後の従業員は、「雇用は維持されるのか」「待遇は変わるのか」「ブランドは残るのか」といった不安を抱えている。店舗型のビジネスでは、本部の動揺や噂が現場へ波及し、店舗運営の他、取引先や顧客の対応にも影響することがある。
この局面では「何を伝えるか」だけではなく、「いつ」「誰が」「どのように」伝えるかが重要である。もっとも、コミュニケーション施策は自社だけで完結できるものではない。対象会社側の経営陣や広報方針との整合性を図りながら、限られた期間で準備を進める必要がある。
実務上は、ディール公表からクロージング直後(Day0~Day1)にかけて、迅速かつ一貫した情報発信を行うことが望ましい。特に重要なのは「変わらないこと」を先に伝えることである。
M&A直後にシナジーや成長戦略ばかりを強調しても、従業員の不安は解消されない。むしろ、雇用や処遇の維持、ブランドや業務の継続などの安心材料を先に示した上で、段階的に統合方針を説明していく方が効果的である。また、現場組織を持つ企業では、情報ハブとなる管理者向けに説明資料やFAQを早期に整備し、現場で情報が混乱しないようにすることも大切である。
(3)労務課題への対応
PMI初期段階では、将来の制度改定や統合以前に、既存の労務課題への対応が優先されるケースも多い。実際のDDでは、未払い残業代、管理監督者該当性、有給休暇管理、就業規則や雇用契約書の不備、三六協定の運用不備、労働紛争、ハラスメントなど、さまざまな労務リスクが指摘される。しかし、DDで行えるのは問題発見までであり、本格的な改善対応はPMIで初めて始まることが多い。
ただ、これらの問題はM&A直後に顕在化するとは限らない。そのため、現場では優先順位が下がりやすい。一方で、投資を行った側や金融機関からすれば、労務問題を放置したままでは、投資判断や融資判断の前提を説明できなくなる。特に未払賃金や法令違反リスクは、将来的に追加コストや訴訟リスクへ発展する可能性があり、ステークホルダーへの説明責任の観点からも早期対応が求められる。
実務では「止血」が優先される。就業規則や雇用契約書の改定、労務管理ルールの整備などを先行して実施し、法令違反状態を早期に是正する。その上で、労務管理体制の見直しや運用改善、制度改定など、「再発防止」を進めていく。
4.中期的には視野に入る人事制度の改定や統合
PMI初期段階では、M&A後の安定運営に向けた対応が優先される。その後、中期的な論点として検討されるのが、人事制度や就労条件をどこまでそろえるかという問題である。
M&A後に人事制度を統合するかどうか、どの程度共通化するかは、M&Aの形態や統合目的によって大きく異なる。例えば、業態や事業特性が大きく異なる会社をグループ会社として子会社化する場合、直ちに制度を統一する必要性は高くない。むしろ、対象会社が独自の報酬体系や働き方を競争力として保持している場合、拙速な制度変更が人材流出やモチベーション低下を招く可能性もある。そのため、必要な改定のみを行いながら既存制度を維持するケースも少なくない。
一方で、合併や事業統合のように、一つの事業体として運営していく場合、一定程度の制度の共通化が必要となる。同じ会社でありながら、異なる等級制度や処遇体系が残り続けると、不公平感が生じやすい。人材交流や配置転換を進めようとしても、制度差異が障壁となるケースもある。
こうした局面では一定期間、雇用や処遇水準を維持することを契約上コミットするケースも存在する。特にカーブアウト案件では「一定期間は現行の労働条件を維持する」といった内容が、労働組合対応やディール交渉の中で論点となることもある。これらは、M&A後の混乱抑制には有効であるものの、その後の人材配置や制度見直しの柔軟性を制約する可能性もある。
制度変更を急ぎ過ぎた結果、従業員の反発を招いたり、不利益変更問題が発生したりするケースも少なくない。不利益変更を回避するために処遇を高い水準に合わせ続けた結果、人件費が恒常的に上昇し、M&A後の収益を圧迫することとなった事例もしばしば見受けられる。他方、制度差異を長期間放置した場合も、不公平感や組織分断につながる可能性もある。
ここで重要になってくるのは、制度改定や統合そのものを目的化しないことだ。人事制度はあくまで事業運営を支える手段であり、PMIの目的はM&A後の事業成長と企業価値向上にある。その視点を失うと、制度変更そのものが事業運営を阻害しかねない。
5.必要なDDとPMIを一体で捉える視点
近年のレンダーDDで人事に関する論点が増加するなか、金融機関が確認したいのは、単に人が足りているかではなく、事業計画を実行できる組織・人材基盤が存在し、M&A後も維持できるのかという点である。そして、DDで把握された人事リスクはM&A後、組織運営上の問題として表れるケースも少なくない。特にPMI初期段階では、キーパーソンの離職への対応、従業員の不安の抑制、労務課題への対応など、事業を止めないための取り組みが重要になる。人事制度や就労条件についても、M&Aの形態や目的を踏まえながら、どこまでそろえる必要があるのかを慎重に見極めていく必要がある。
M&A後のPMI初期段階では、DDで把握された人事リスクに対し、どのような優先順位で対応していくかが、その後の統合運営に大きく影響する。DDとPMIを分断せず、「M&A後に何が起きるのか」という視点で人事リスクを洗い出すことが、今後のM&A実務ではいっそう重要になるのではないか。