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      1.処理の分散から知能の遍在へ

      サイバーフィジカルシステム(以下、CPS)とは、現実世界(フィジカル空間)から得られる膨大なデータをコンピュータ(サイバー空間)上で分析し、その結果をフィードバックすることで現実世界の最適な制御を実現するシステムを指します。日本政府が2016年に提唱したSociety 5.0では、「経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会」を実現する手段として、CPSが明確に位置付けられており、製造現場における生産プロセスの自動化や、交通・物流の最適化、エネルギー効率を高めるスマートシティの構築など、さまざまな領域で実証や社会実装に向けた取組みが進められてきました。
      このCPSのアーキテクチャは技術の進展とともに大きく変化してきました。通信技術と計算能力の向上は、膨大なデータの分析をクラウドだけでなく、エッジサーバーや端末側でも実行可能にする「処理の分散」を推し進めてきました。さらに昨今の生成AIの急速な発展は、単なるデータ処理の場所の分散だけではなく、真の意味での「知能の遍在」をもたらしつつあります。これは、従来の定型的な識別処理を超え、端末デバイスそのものが状況を文脈レベルで理解し、その場に応じた推論に基づいて行動する自律型エージェントとして機能することを意味します。つまりCPSは、所与の条件下でプログラムを効率的にこなす「自動化システム」から、個々のエッジが環境と対話し続け、システム全体が有機的に連動する「自律的な知的基盤」へと拡張しつつあるのです。

      2.CPSを構成する技術

      この知能の遍在への移行の裏で、フィジカル空間とサイバー空間をつなぐ技術の性能も著しく向上しています。生成AIがいかに進化しても、データを入力、処理、伝送、出力する一連のプロセスを支える物理的なインフラやデバイスが高度化しなければ、その能力を実世界で十分に発揮することはできません。以下、生成AIの実効性を支える技術要素について整理します。

      (1)センシング:数値計測から意味理解へ

      かつてのセンシングは、温度、振動、位置座標といった物理パラメータを定量的に取得することが主目的でした。しかし現在では、カメラ、音声、深度情報などを複合的に活用し、マルチモーダルAIが解釈可能な意味や文脈として実世界を記述する技術へと進化しています。これにより、数値化しにくい曖昧な状況や複雑な環境変化についても人間のように状況を理解できるようになり、あらゆる産業領域において、定型的な閾値判定を超えた柔軟な状況判断が実装され始めています。

      (2)エッジコンピューティング:フィルタリング処理から実行環境へ

      かつてのエッジ領域は、クラウドへのデータ通信量を減らすためにフィルタリングや単純処理を行う、従属的な役割しか持ちませんでした。しかし現在では、高性能なSLM(小規模言語モデル)やNPU(ニューラル処理ユニット)の搭載により、ネットワーク接続が絶たれた環境下でも、現場で即座に高度な推論や判断を行う「独立した知能」としての役割を担いつつあります。これにより、通信環境やセキュリティ制約に縛られることなく、あらゆる物理的接点において生成AIの高度な能力を行使できるようになり、現場での即時的な価値創出とレジリエンスの確保を実現しています。

      (3)通信:データ伝送から感知・計算との融合へ

      かつての通信ネットワークは、単にデータをA地点からB地点へ運ぶパイプとしての役割が中心でした。 しかし現在では、通信波そのものが空間を認識するセンサーとして機能し、同時にネットワークそのものが巨大な計算機としても振る舞う「多機能な統合基盤」へと進化を遂げています。これにより、専用の計測機器を敷設せずともインフラ側で空間の変化を捉え、即座に計算リソースを動員してフィードバックを行うことで、環境認識から意思決定までのタイムラグを極小化した、広域システムのリアルタイムな自律最適化が実現します。

      (4)アクチュエーション:命令実行型から意図実行型へ

      かつてのアクチュエーション(ロボットや制御機器)は、あらかじめプログラムされた手順を正確に繰り返す「自動化」が中心でした。 しかし現在では、「空間を快適に保つ」、「安全に移動させる」といった意図を与えれば、AIがその場の状況に合わせて自ら最適解を生成し、試行錯誤しながら物理世界に働きかける「自律化」が可能となりました。これにより、都市インフラ、エネルギー管理、モビリティなどのあらゆる物理システムにおいて、事細かな事前設定なしに、変動する環境に対して適応し続ける柔軟な社会実装が可能となりつつあります。

      図表1:関連する技術要素の発展(抜粋)

      3.エージェント化するシステムへの拡張に伴う課題

      これらの技術要素が高度に統合されることで、CPSは物理世界とのインターフェイス自体が状況を解釈し、即座に物理的介入を実行するシステムへと変容しています。これは、単なる計算処理のオフロードではなく、意思決定機能そのものが分散配置される状態への移行を意味します。一方で、この拡張に伴い、既存の法制度やガバナンスの枠組みが想定していない課題が顕在化しています。本稿では、こうした事態を「指針の空白」と呼びます(シリーズ第1回参照)。以下、特に重要な課題を整理します。

      (1)マルチエージェントシステムにおける責任帰属の不明確さ

      最も深刻な課題は、人間の認知能力を超えるスピードと複雑さで自律システムが相互作用する点にあります。多数のドローンやセンサー、自律型ロボットが協調するマルチエージェントシステムの活用においては、個々のデバイスではなく集団としての創発的挙動が結果を左右します。ミリ秒単位で相互作用するエージェント群の挙動を、人間がリアルタイムで理解し介入することは認知的にほぼ不可能です。仮にこのブラックボックス化した相互作用の結果として事故が起きた場合、法的責任の前提となる「予見可能性」を誰が担うのかが争点となります。通信事業者は「帯域は提供していた」、AI開発事業者は「アルゴリズムは仕様どおり最適化を行った」、そして工場管理者は「AIの瞬時の判断は予見不可能だった」とそれぞれの正当性を主張するなかで、処理が動的に分散したがゆえに、責任の所在もまた曖昧になる可能性があります。

      (2)相互運用性の確保に関わる物理的な壁

      エッジ領域における相互運用性の欠如は、特定のベンダー技術に過度に依存するロックインを引き起こし、産業全体の柔軟性を損なわせます。エッジでの推論処理を高速化するためにエッジデバイスには特定のAIアクセラレータや専用のソフトウェアスタックが採用されることが一般的です。このハードウェアとソフトウェアの密結合は、パフォーマンスを最大化する一方で、アプリケーションの可搬性を著しく低下させます。
      また、クラウド上ではコンテナ技術等により標準化が容易ですが、フィジカル空間では「物理的な配置」や「ハードウェア特性」そのものが機能要件となります。通信速度がいかに向上しても、物理動作を伴う制御領域においては、わずかな遅延の揺らぎやハードウェアごとの物理仕様の違いが障壁となり、サイバー空間のような画一的な標準化は困難です。この技術面の実態とルールの乖離が、エコシステム形成の課題となっています。

      (3)リバウンド効果による環境負荷の増大

      エッジ処理による通信量削減は省エネに寄与するようにみえますが、利便性の向上がデータの総生産量を爆発的に増加させるリバウンド効果も懸念されます。特に、あらゆる場所に推論機能が埋め込まれ、常時稼働する世界においては、個々の効率化を相殺するほどのエネルギー消費を招く可能性があります。実際、5Gやエッジコンピューティングの導入による正味の環境負荷削減効果に関し、リバウンド効果を考慮した信頼できるデータが不足しており、利便性の向上が過度な消費を招くことが懸念されてきました。運用時の電力だけでなく、膨大な数のエッジデバイスの製造に伴う二酸化炭素排出も含めたライフサイクル全体、およびリバウンド効果を含めた正味の環境影響をどう評価するか、新たな物差しが求められています。

      4.課題に対するアプローチ

      CPSの概念そのものを大きく変化していくなかで、ルールやガバナンスの未整備はビジネスのボトルネックとなります。企業はこれらの不確実性を単なるリスクとして回避するのではなく、能動的にルール形成に関与し、自社に有利な競争環境を設計する好機と捉えるべきです。以下、企業が採り得る4つの戦略的アプローチを提示します。

      (1)未来シナリオからのバックキャスティング

      変化の兆しから複数の未来シナリオを描き、「今やるべきこと」を逆算するアプローチを戦略的フォーサイトといいます。単なる技術予測ではなく、事業環境の分岐点を見極めることが重要となります。例えば、「エージェント間のデータ連携が義務化される未来」と、「プラットフォーマーによる囲い込みが続く未来」では、採るべき知財戦略や提携パートナーは大きく異なります。技術そのものだけでなく「技術が置かれる前提条件」をシナリオ化し、自社にとって望ましいシナリオを実現するために、業界団体を通じた標準化活動やルール形成へリソースを投じることが、中長期的な競争力を左右します。

      (2)新たな規範や価値の提示

      法整備が技術に追いつかない過渡期において、企業は既存ルールの枠外で自律的に規範を形成する必要があります。例えば、予見困難な自律システムの事故に対し、法規制を待つだけではなく、事前に「免責と補償のルール」を契約に落とし込み、事業者間で合意形成を先行させることが、ビジネスを停滞させないための現実解となります。
      同時に、環境面ではGHG削減貢献量を評価する枠組みが重要になります。エッジ導入による電力消費の増加を、社会全体のエネルギー削減効果で正当化し、それを製品やサービスの正当な付加価値として訴求できるよう、GHG削減貢献量の算定ルール整備に参画していく姿勢がESG経営における競争力の源泉となります。

      (3)相互運用性を確保するオープン&クローズ戦略

      生成AIが真価を発揮するには、企業や業界の壁を超えたデータ連携が不可欠です。ここで回避すべき最大のリスクは、自社のシステムが孤立し、サプライチェーン全体の最適化から取り残されることです。したがって、AIモデルや学習データといった「競争領域」は厳重に守りつつ、他社との接続インターフェイスやデータ交換プロトコルは「協調領域」として開放する、賢明な切り分け(オープン&クローズ戦略)が重要となります。欧州データスペース等の動向を鑑みても、標準規格への準拠はエコシステム参加への必須条件となりつつあり、社会システム全体の一部として「つながる能力」を確保したうえで、いかに独自の機能価値を発揮するかが、次世代の競争優位を決定付けることになります。

      (4)Trustworthy AI by Designによる信頼性の実装

      人がリアルタイムで理解し介入することが事実上不可能な環境においては、運用ルールで縛るのではなく、アーキテクチャ自体にルールの要件を埋め込む「By Designアプローチ」がカギとなります。これは、法的・倫理的要件を技術仕様として設計段階から組み込む手法です。例えば、分散台帳技術を用いてAIの動作ログを改ざん不可能な形で保存し、事後的な監査可能性や説明可能性を担保することなどが挙げられます。ブラックボックス化しやすいAIに対し、こうした「信頼」を技術要件として実装するエンジニアリングこそが、社会的な受容性を高め、責任あるかたちでビジネスを加速させる原動力となります。

      5.おわりに

      生成AIとセンシング、エッジ、通信、アクチュエーションといった技術の融合により、CPSはシステム全体が有機的に連動する「自律的な知的基盤」へと質的な転換を迎えようとしています。この新たな環境において競争優位を築くのは、技術スペックの高さだけではなく、技術の発展とルール形成の狭間で生じる課題に対し、明確な対応策を講じることができる企業です。事業開発と並走した能動的なルールメイキングへの関与こそが、次代の産業リーダーに求められる条件となるでしょう。

      執筆

      KPMGアドバイザリーライトハウス
      デジタルインテリジェンスストラテジー
      シニアコンサルタント 加納 寛之

      監修

      KPMGコンサルティング
      アソシエイトパートナー
      石原 剛

      KPMGアドバイザリーライトハウス
      デジタルインテリジェンスインスティテュート リード
      マネジャー 佐藤 昌平

      シリーズ「先進技術×ルールメイキングで築く競争優位性」第1回――テクノロジーの急速な発展にルールメイキングが追い付かない状態「指針の空白」が経営判断の不確実性を高めています。一方で、この空白を先読みし勝ち筋を描ける企業は、市場の前提条件を方向づけ、競争優位を築くことができるでしょう。

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      KPMGアドバイザリーライトハウスは、データと分析、洞察から企業や社会の進むべき方向を照らします。

      連載「トレンドレーダー」――2025年の生成AI動向を俯瞰すると、「分散」と「統合」という、一見相反する2つの潮流が同時に加速した年だったことが見えてきます。本稿では、2025年の生成AIトレンドを総括するとともに、2026年に向けて、経営者として改めて自問すべき問いを提示します。