量子コンピューティングがもたらす新たな価値創出

量子コンピューティングとは、「状態の重ね合わせ」や「量子もつれ」といった量子力学の原理を用い、特定の問題に対する計算ステップを大幅に削減し、従来のコンピュータでは困難だった情報処理に新たな解法をもたらします。最適化、探索、シミュレーションといった計算手法そのものを拡張し、例えば、膨大な候補から有望解を絞り込む、複雑な制約下でより良い組み合わせを見つける、あるいは確率的ゆらぎを織り込み予測精度を高める、といったことを可能にします。

 

この計算パラダイムの転換は、研究開発、製品設計、サプライチェーン最適化から金融・医療の高度解析まで、幅広い産業で価値創出を加速することが見込まれます。もっとも、現時点では古典コンピュータとのハイブリッド方式による研究開発や概念実証(PoC)が中心です。実用的な課題で、コスト、時間、精度のいずれかで古典計算を明確に上回る「量子優位性」の達成が長らく期待されてきました。そうしたなか、2025年10月22日にGoogleが報告した「検証可能な量子優位性」の世界初の実証は、基礎研究の画期的成果として注目を集め、本格的な産業応用への期待を一段と高めています。

図表1:産業別用途と期待される財務上の効果

量子優位性を見据えたルール形成の論点と企業戦略 図表01

成長を牽引する主要因

量子コンピューティングの産業応用は、技術革新と戦略的投資を背景に今後本格化することが想定されます。

(1)技術革新の加速

技術的なブレークスルーが想定以上のペースで報告され、性能競争の焦点が量子ビットの「数」から「質」へ明確にシフトしたことは大きな変化です。ここでいう質とは、量子ビットをいかに長く安定状態に保つか(コヒーレンス)と、計算中に生じる誤りをいかに効果的に抑制・訂正できるか(忠実度)の2つの側面を指します。

ここで鍵となるのが量子エラー訂正(QEC)です。多数の物理量子ビットを束ねて誤りに強い論理量子ビットを構成し、計算途中の誤りを検知・訂正する仕組みで、装置を大規模化しても計算結果の信頼性を担保できる基礎原理が実証されました。

並行して、量子ビットを精密に扱う制御ソリューションやコンパイラなど、ハード・ソフト両面での開発競争も激化しています。初期化・ゲート操作・読み出しといった基本動作の最適化で外部ノイズの影響を最小限に抑え、誤り率を低減し、QECのオーバーヘッド軽減にも寄与しています。

(2) 戦略的投資の潮流

各国政府は経済安全保障と技術覇権の確立を見据え、量子技術の研究開発に大規模な公的資金を投じており、量子技術を国家の重要基盤技術と位置づける姿勢が明確になっています。日本の統合イノベーション戦略や米国の国家量子イニシアチブに代表されるように、国家戦略に基づく研究開発プログラムやインフラ整備が民間資本を呼び込む触媒となり、イノベーション拠点の形成も進んでいます。

投資環境に目を向けると、近年の世界的な資金調達の減速は量子分野にも影響していますが、落ち込みは他分野と比べ相対的に穏やかです。むしろ、その減速を補って余りある規模で各国の公的資金投入が活発化しています。スタートアップ投資全体に占める公的資金の割合も上昇しています。こうした動向は、量子技術をめぐる国家間競争が激化している表れといえます。

今後、産業界の関心は実用的な量子優位性の実現へとシフトしていくでしょう。とはいえ、本格的な実用化への道のりは平坦ではありません。専門人材の不足や産業全体を支えるエコシステムの未成熟など課題は多く、解決に向けた産官学の着実な取組みが不可欠です。

図表2:量子コンピューティングの産業応用を加速させる要因

量子優位性を見据えたルール形成の論点と企業戦略 図表2

代表的な指針の空白

量子コンピューティングの産業応用への期待が高まる一方、技術の進化にルールや制度が追いつかない事態も顕在化しつつあります。本連載では、この事態を「指針の空白」と呼びます(シリーズ第1回参照)。以下では、「性能評価基準の混在」と「国家戦略の相違がもたらす課題」の2点に焦点を当てます。

1.性能評価基準の混在

異なる方式の量子コンピュータの性能を公正に比較する共通ベンチマークが確立されていません。結果として、各ベンダーが独自の指標で優位性を主張し、ユーザー企業は客観的な性能比較や導入判断が難しい状況にあります。

例えば、IBMが提唱する「量子ボリューム」は、量子ビット数やエラー率を総合評価しますが、特定の応用における実用性能とは必ずしも一致しないと指摘されています。IonQの「アルゴリズミック量子ビット」は、より応用寄りの評価を行いますが、定義の統一や第三者による再現性に課題が残るとされます。量子エラー訂正技術の進展で評価の焦点が物理ビットから論理ビットへ移るなか、Microsoftが提唱するrQOPS(信頼性のある秒間量子演算回数)のような新たな指標も登場しています。

指標の混在は、業界がなお発展途上である表れであり、ユーザー企業の客観的な評価を複雑にし、投資判断や導入計画の不確実性を高めています。

2.国家戦略の相違がもたらす課題

量子技術は国家安全保障に直結するため、国際的なルール形成と国家主導の規制強化が同時に進んでいます。しかし、その足並みは揃っておらず、グローバルな企業活動の障壁となりつつあります。

ハードウェアをめぐっては、米国やEUなどで輸出管理が強化される一方、規制対象の性能閾値や、クラウド経由での利用が「技術移転」にあたるかの判断基準は国ごとに異なり、解釈の余地が大きくなっています。この曖昧さは、グローバルな研究開発やサプライチェーン構築における予見可能性を損ない、法務・コンプライアンスを複雑にしています。

将来の解読リスクに備える次世代暗号では、国家間でアプローチの違いが顕在化しています。米国がソフトウェアベースの耐量子暗号(PQC)の標準化を進める一方、EUはハードウェアベースの量子鍵配送(QKD)の大規模インフラに投資するなど、重視する解決策が異なります1。こうした方針の違いは、将来の国際的な相互運用性への懸念を生みます。

指針の空白に対するアプローチ

量子コンピューティングは本格的な実用化の黎明期にあり、技術や市場の将来像には不確実性が残ります。前節で確認した「指針の空白」は、この不確実性をさらに増幅させます。こうした状況に、企業はどのように向き合うべきでしょうか。

以下では、本連載第1回で導入した4つのアプローチを、量子コンピューティングの文脈に即して再整理します。

1. 戦略的フォーサイト:未来シナリオから逆算し、段階的な投資と体制構築を進める

量子コンピューティングの実用化では、「いつ、どの技術が登場するか」という技術面の不確実性と、「誰が、どのようなルールで主導するか」という制度面の力学が絡み合います。戦略的フォーサイトとは、変化の兆しを捉えて複数の未来シナリオを描き、そこから「今やるべきこと」を逆算するアプローチです。

その実践は、国家戦略や主要企業の技術ロードマップを継続的にモニタリングし、「自社の課題を解けるマシンはいつ登場するか」「暗号解読の脅威はいつ現実になるか」といった問いへの自社なりの見解を常に更新し続けることから始まります。未来の正確な予測は困難ですが、こうした姿勢こそが、将来の投資タイミングや事業計画の質を大きく左右します。

すぐに検討を始めるべき課題も存在します。例えば、「Harvest Now、Decrypt Later(HNDL)」――将来の解読を見越し、暗号化データを今のうちに盗み出す攻撃――が挙げられます。この脅威を前提にすれば、耐量子暗号(PQC)への移行は、もはや未来の技術の登場を待つ課題ではなく、「自社が守るべき情報の価値と寿命」を基準に今すぐ着手すべき課題です。

図表3:量子技術に関する国家戦略&民間企業の技術ロードマップの例

量子優位性を見据えたルール形成の論点と企業戦略 図表3

2. 攻めのルールメイキング:国家主導のルール形成を制約ではなく戦略に織り込む

量子技術は経済安全保障に直結するため、国家主導のトップダウンでルール形成が進む側面があります。日本企業は、これを外部制約として受け身で捉えず、自社の戦略に織り込み機動的に適応することが求められます。

ここでは「ハードウェアの輸出管理」と「次世代暗号の標準化」という2つのルール形成を例に考えます。前者は企業の競争力に、後者は事業の信頼性に直結します。

ハードウェアの輸出管理は、最先端マシンへのアクセスを制限し、企業の研究開発のスピードと質に影響します。例えば、新素材開発や創薬では、計算能力の差が製品の市場投入のタイミングを決定づける可能性があります。日本企業がグローバルな競争で不利にならぬよう、各国の規制動向と日本政府の対応を注視し、自社への影響を分析するとともに、必要なら産業界として行政に働きかける必要があります。

一方、次世代暗号(PQC)の標準化は、企業の知的財産を守る信頼の基盤に関わります。総務省や情報通信研究機構(NICT)等のガイドラインを参照し、まずは自社システムにおける現在の暗号利用状況を棚卸し、移行順序と対応範囲の設計が必要です。この準備により、将来の脅威や新たな技術に迅速に対応できる能力「暗号アジリティ」を獲得し、迅速かつ低コストで変革を進められるようになるでしょう。

3. 競争×共創の標準化戦略:産業の土台を共創し、その上で競争する

量子技術のような新興市場では、自社の優位性を築く「競争」と、市場全体の土台を育てる「共創」の両立が不可欠です。まず市場成長を促す「共創」があり、その上で初めて健全な「競争」が成立します。共創の具体的な動きとして、以下の産業コンソーシアムでの2種類の取組みを紹介します。

第1の取組みは、客観的な性能ベンチマーク確立に向けた動きです。量子コンピュータは演算方式(超伝導、イオントラップ等)で特性が異なり、性能比較が困難なことがユーザー企業の投資障壁となっています。この課題に対し、米国のQED-C(Quantum Economic Development Consortium)や日本のQ-STAR(量子技術による新産業創出協議会)といった業界推進団体が、誰もが公正に参加できる共通の「ものさし」作りを主導しています。

第2の動きは、産業別のユースケース探索を目指すコンソーシアムでの連携です。ユースケース探索は高度な専門人材と多大な試行錯誤を要するため、一社単独での推進は非効率です。そのため、同業他社が連携して知見を共有しつつ、共通のユースケースを探求する動きが活発化しています。

こうした共創活動は、それ自体が目的ではなく、次の苛烈な競争への準備にほかなりません。共創によって客観的なベンチマークという土俵ができて初めて、公正な競争が可能になります。また、コンソーシアムで得られた業界共通の知見というスタートラインに立って初めて、各社は独自のノウハウを駆使した競争に挑むことができます。

ユーザー企業も、こうした動向を単に注視するだけでなく、自社の課題解決に即した評価軸やユースケースを早期から検討・検証することが、量子コンピューティングの恩恵を最大化する第一歩です。特に、欧米企業がルール形成を主導してきた歴史を踏まえれば、日本企業がこうした共創の場で積極的にイニシアチブを取ることの戦略的意義は大きいでしょう。

図表4:量子技術関連の産業コンソーシアムの取組み

量子優位性を見据えたルール形成の論点と企業戦略 図表4

4. 信頼性の設計:技術と社会の両面から事業の継続性を担保する

量子技術の産業応用には「信頼性」の設計が不可欠です。これは金融や医療といった規制産業に限った話ではありません。計算結果の正しさを担保する「技術的信頼性」と、倫理的・社会的な公正さを確保する「社会的信頼性」の両輪で、事業の継続性を担保する仕組みの構築が求められます。

技術的信頼性では、例えば創薬で発見した新分子候補や、金融で算出したリスク値が「本当に正しい」とどう証明するかが、実用化での極めて重大な課題です。この課題に応える量子特有の検証・妥当性確認技術(QCVV)2はまだ発展途上であり、自社の品質保証プロセスをどう変革すべきか、早期の検討が求められます。

社会的信頼性では、その技術が責任ある形で利用されているかを示すことも不可欠です。特に、巨大企業による計算能力の独占がもたらす「量子格差」や、暗号解読による社会インフラへの脅威など、量子技術は倫理的な論点を含みます。国際的なフォーラムや主要企業は、こうした課題に対応するガバナンス原則の策定を進めています。企業にとって、こうした倫理的・社会的課題への向き合い方を示すガバナンスは、コンプライアンスを超え、顧客への重要な価値提案の一部となります。

図表5:量子技術の責任あるガバナンス

量子優位性を見据えたルール形成の論点と企業戦略 図表5

おわりに

量子コンピューティングは、技術革新と戦略的投資に支えられ、本格的な産業応用への期待が高まっています。一方で、その前途には性能ベンチマークの混在や国家戦略の相違といった指針の空白が待ち受けています。

この状況を単なるリスクと捉え、技術やルールの成熟を待つ「待ち」の姿勢は、未来の事業機会を逃しかねません。むしろ、本稿のアプローチを踏まえ、これらの動向に能動的に関与する姿勢こそが、未来の量子社会における自社の競争優位を確保する鍵となるでしょう。

 

1 PQC(Post-Quantum Cryptography:耐量子暗号)は、量子コンピュータでも解読が困難とされる新たな暗号方式。QKD(Quantum Key Distribution:量子鍵配送)は、量子力学の物理法則(観測すると状態が変化する)を利用して盗聴を検知し、安全に暗号鍵を配送する通信技術。

2 QCVV(Quantum Characterization,Validation,and Verification)は、量子コンピュータの特性評価、検証、妥当性確認を行うための一連の技術や手法を指す。計算結果が「本当に正しい」ことを保証するための品質管理技術として重要視されている。

 

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執筆

KPMGアドバイザリーライトハウス
デジタルインテリジェンス
シニアコンサルタント 加納 寛之

監修

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執行役員 パートナー
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