目次
1.EUが推進するDPP制度の全体像と関連規則
欧州連合(EU)は「持続可能な製品政策」の一環として、デジタル製品パスポート(Digital Product Passport:以下、DPP)の導入を加速させています。DPPは、単なる紙ベースやPDF形式の製品ドキュメントを超え、製品ごとの識別子に紐付けて製造から使用、修理、再利用、リサイクルに至るライフサイクル全体の情報を管理し、利害関係者が必要に応じてアクセスできる仕組みです。EUは今後、DPPを通じて製品の環境負荷、リサイクル可能性、修理容易性などの情報を標準化・透明化し、規制当局や消費者、事業者にとって信頼できる情報基盤として整備する方針です。
特に注目すべき点は、すでに発効済みの欧州バッテリー規則(Regulation(EU)2023/1542)が、DPPの先行適用として位置付けられている点です。2027年2月からは、EV用・産業用などの大型バッテリーに「バッテリーパスポート」が義務化されます。これにより、GHG(温室効果ガス)排出量、原材料の出所、使用履歴および再生材含有率などが電子的に記録され、必要に応じて更新・公開されることになります。
さらに、欧州エコデザイン規則(ESPR:Regulation(EU)2024/1781)は、すべての製品カテゴリーにDPPを広げる枠組みです。製品ごとに設定される委任法に基づき、修理可能性やリサイクル比率などの要件が段階的に追加されていきます。EUはDPPの情報を集約するレジストリと公開ポータルを設置する予定であり、これにより製品比較や市場監視の基盤が整備されます。2025年春、欧州委員会はDPPサービスプロバイダの認定ルールについて公開協議を開始し、制度実装に向けた準備が本格化しました。今後は製品カテゴリーごとに委任法が順次採択され、2027年以降は繊維、電子機器、建材など幅広い分野でDPPの適用が進む見込みです。
また、化学物質規制であるREACH規則(Regulation(EC)No 1907/2006)との連携強化も今後の焦点となっています。欧州委員会は現在、REACH規則の大規模改正を検討しており、そのなかで、製品中の高懸念物質や制限物質に関する情報の伝達・追跡においてDPPとの相互運用性を確保する方針を明らかにしています。
このようにDPPは、製品単位での環境・物質リスクの可視化を担う新たな中核インフラとして位置付けられており、日本企業にとってもサプライチェーン管理や市場戦略に直結する重大な変化として対応戦略の検討が不可欠です。本記事ではその具体的な影響と、今求められるアクションについて考察します。
【図表1-1:DPP関連規則のタイムライン】
出所:欧州委員会の公表資料等を基にKPMG作成
【図表1-2:欧州バッテリー規則と欧州エコデザイン規則の要件表】
出所:欧州バッテリー規則、欧州エコデザイン規則等を基にKPMG作成
2.従来型ドキュメント対応の限界と日本企業の課題
これまで日本企業は、安全データシート(SDS)などの製品ドキュメントを整備することで欧州市場の要請に対応してきました。従来のSDSが主に化学物質の安全性を静的に伝達する文書だったのに対し、EUが導入を進めるDPPは、製造から廃棄・再利用に至るまでのライフサイクル全体をカバーし、情報を継続的に更新・共有する動的なデータプラットフォームを前提としています。EUはこのDPPを、固有ID、QRコード、公開レジストリを通じて当局や取引先、消費者が直接アクセス可能な制度として構築しており、情報の遅延や不整合は即座に販売禁止や制裁金といったリスクにつながります。
特に日本企業では、設計・調達・環境・営業といった部門間で情報が分断されている現状がDPP対応の障壁となります。こうしたなかで、DPPを契機として、リアルタイムかつ一貫したデータ統合体制を構築することが国際競争力の鍵となります。今求められているのは、DPPを単なる規制対応ではなく、サプライチェーンの透明性強化と競争優位の実現を図る「戦略的投資」として捉える視点への転換です。
3.DPP対応に向けたシステム基盤整備の考え方
EUが推進するDPPは、製品のライフサイクル全体にわたる情報をデジタル形式で一元管理し、サプライチェーン全体での透明性や持続可能性の向上を目的とする制度です。今後は、図表1に示すように対象製品が広範な分野に拡大される見込みです。日本企業がこの規制に対応するためには、既存の生産管理システムや業務プロセスを見直すことが必要となってきます。
DPPでは製品に関する情報として、原材料の由来、製造工程、修理履歴、リサイクル可能性、有害物質の含有状況などを正確かつ網羅的にデータとして記録し、これらをDPPフォーマットに準拠した形で提供できるシステム基盤が求められます。現状、これらのデータ群を一元的に収集・管理している企業は限られており、企業の多くは事業部門ごとに異なる管理システムやデータフォーマットで情報を管理し、情報の統合や標準化が十分でないケースが多いと考えられます。そのため、PLMや基幹系システムとの連携も強化し、製品情報データを一元的に収集・管理できる環境を整備する必要があります。
また、サプライチェーン全体の情報連携も不可欠となります。DPPでは自社だけでなく、部品・原材料を供給するサプライヤーからの情報連携も必要となるため、企業間データ連携あるいは外部データ連携基盤であるデータスペースを活用し、信頼性の高いデータ取得体制を構築することが重要となります。
欧州では欧州委員会やドイツが中心となり自動車業界のCatena-Xや化学業界のChem-Xをはじめとした業界別データスペースを統合するManufacturing-Xの整備を推進しています。また、日本国内においては、政府は産業イニシアティブであるウラノス・エコシステムの下、データスペースの社会実装を実現する技術コンセプト「Open Data Spaces」を推進しています。また、日本経済団体連合会はデジタルエコシステム官民協議会を設置し、企業のデータ連携を推進する体制を整備しています。
さらに、各社は収集したデータをEU規制に基づく形式でエクスポートし、更新・保守が可能なデジタル基盤の整備も求められます。たとえば、製品にQRコードやNFCタグを付与し、データ管理基盤内のパスポート情報にアクセスできる仕組みを整備する必要があります。これには、情報セキュリティの配慮も不可欠であり、サイバーセキュリティ対策やアクセス制御機能の強化も同時に進める必要があります。
このように、日本の企業がDPPに対応するためには、情報システムを全社的かつグローバルに連携し、製品ライフサイクルを通じた情報の可視化・連携を実現することが鍵となります。DPPは単なる法規制対応にとどまらず、サーキュラーエコノミー対応を見据えた競争力強化の機会ともなり得ます。そのため、既存のシステム基盤を戦略的に整備し他社との競争優位を見出すことが重要となります。
4.システム基盤整備までのステップ
システム基盤整備では、製品に関する広範な情報を正確に管理し、信頼できる手段により取引企業間で円滑な共有が不可欠となります。
第一のステップは、現状分析と情報の棚卸しになります。自社で保有する製品情報、部品表、材料データ、サプライヤー情報などを明らかにして、どの情報がDPPに必要かを明確にします。同時に、情報の保管場所、データ形式、更新頻度、管理部署などを整理し、情報のギャップや非効率な運用実態を把握します。
第二に、情報運用管理体制の再構築が求められます。DPPでは製品ライフサイクル全体の情報が求められるため、資材調達、設計、製造、品質、物流、サービス部門を横断したデータ連携も重要となってきます。PLMやERP、SCMなど既存システム間の連携強化や、必要に応じてデータ連携基盤の再構築も検討し、横断的な情報の流れを整えます。
第三のステップとして、外部連携基盤の構築があります。DPPはサプライチェーン全体の情報統合を前提とするため、取引先企業からの情報収集と共有が不可欠となります。これには標準化されたデータ形式の導入やサプライヤー情報管理の整備が必要となります。この場合には中小サプライヤーも含めた連携体制の構築が鍵となります。
第四に、DPPデータの生成・更新・公開の仕組みを構築します。欧州規制に準拠したデータ構造で情報を生成し、製品ごとに固有の識別子(QRコード、NFCタグ等)を付与し、データを公開・更新するシステムが必要となります。この際、データの信頼性とリアルタイム性を確保するため、ワークフロー管理や承認機能の整備も重要となります。
最後に、セキュリティとガバナンスの強化も必要となります。公開される情報は機密性の高い技術情報も含まれるため、アクセス権限管理、サイバーセキュリティ対策、ログ管理など、情報保護の仕組みを組み込む必要があります。また、情報の正確性とトレーサビリティを担保するための社内ルール整備も不可欠となります。
これらのステップを踏むことで、日本の企業は単なるDPP対応にとどまらず、データ利活用を軸とした競争優位の確立へとつなげることができます。近年では、企業は業務プロセスを可視化して分析するプロセスマイニングを行い、生成AIを活用した人と業務プロセスの最適化も行われています。DPP対応は単なるシステムの再整備と捉えるのではなく、既存のシステム基盤の高度化と位置付けて戦略的投資と捉えるべきです。
【図表2:DPP対応システム基盤整備までの基本ステップ】
出所:KPMG作成
5.システム化を契機とした企業価値向上
・市場競争力の強化
EU規制に適合したサプライヤーは調達リストに残る一方、未対応企業は市場から排除されるリスクを負います。DPP対応は調達先選定の必須条件となりつつあり、早期対応が競争優位に直結します。さらに、中古市場においても大きな可能性が広がります。DPPによりバッテリーの健全性や使用履歴が提示できれば、価格形成や調達判断においてこれらのデータに基づく選別が進みます。
・ESG評価機関からの評価
これまで企業が任意に開示してきた環境情報は、比較可能性や検証可能性に課題がありました。DPPは炭素フットプリントや再生材使用率、人権デュー・デリジェンスの証跡を法的に担保された形で提供するため、ESG評価機関や投資家にとって信頼性の高い情報源となります。日本企業にとってDPP対応による透明性確保は、資本市場からの評価向上や資金調達コスト低減、投資家層の拡大に直結する戦略的メリットを持ちます。
・サプライチェーンリスク管理の高度化
DPPは、製品そのものの情報にとどまらず、サプライチェーンの全体像を可視化する役割を果たします。調達先の情報、人権や環境に関するリスク評価、再生材のトレーサビリティなどが体系的に整理されることで、企業は自社のリスクマップをより精緻に描くことが可能になります。従来のように不祥事発生後の対応に追われるのではなく、リスクを事前に特定し、取引先選定や契約交渉の段階で手を打つことができる点で、不祥事発生時のブランド毀損を防ぐとともに、交渉力強化や契約条件の有利化にもつながります。
・グローバル規制先行対応による市場アクセス確保
EUのDPPは先行事例ですが、米国ではSECが気候関連情報開示を義務化、日本を含む各国でも製品環境情報の法制化が進みつつあります。早期にDPP対応システムを整備することは、今後拡大する各地域の規制にも迅速に適合できる基盤を持つこととなるため、グローバル市場アクセスを確保し、長期的な成長余地を確保できます。
6.まとめ
※本文中に記載されている会社名・製品名は各社の登録商標または商標の場合があります。
執筆者
KPMGコンサルティング
シニアマネジャー 荒尾 宗明
シニアマネジャー 藤村 成弘