エネルギー・インフラ業界における ROICの活用
エネルギー・インフラ業界、特に公共性の高い電気、ガス、道路・鉄道の建設・運営、物流等の業界の特性を踏まえた、ROICを活用した戦略策定の在り方について考察を行います。
エネルギー・インフラ業界、特に公共性の高い電気、ガス、道路・鉄道の建設・運営、物流等の業界の特性を踏まえた、ROICを活用した戦略策定の在り方について考察を行います。
いわゆる「PBR1倍割れ問題」に対する対応からもROICの活用は注目を集めています。市場からの要請を受け、必ずしも業界特性との相性が良くはないエネルギー・インフラ業界の企業においてもROIC目標の策定が進んでいます。ROICは投下資本の収益性・効率性を評価することができるため、その活用は企業価値向上に寄与する可能性がありますが、一方で導入にあたっては、特に業界特有の留意点を考慮したうえで、ROICだけではなく他の財務指標や非財務指標を併用しながら、多角的な視点から経営判断を実施していくことが、中長期的な企業価値向上につながっていくと考えられます。
本稿では、エネルギー・インフラ業界の特性を踏まえた、ROICを活用した戦略策定の在り方について考察を行います。
なお、本稿においては、広範にわたるエネルギー・インフラ業界のなかでも特に公共性の高い電気、ガス、道路・鉄道の建設・運営、物流等の業界を念頭に話を進めていきます。
POINT1:エネルギー・インフラ業界とROICの相性 エネルギー・インフラ業界は大量の資本投下を要する安定的長期回収型のビジネスであること、社会基盤としての役割を担うことから収益性や効率性よりも信頼性や安全性の確保が先んじて重視されてきたことなどから、ROIC偏重型の経営判断・事業評価は事業運営の視点で必ずしも適切なものにならないリスクが大きい
POINT2:ROIC導入の目的 ROICをはじめとするKPIの導入はそれ自体が目的ではなく、全社戦略の観点での「全社経営資源の最適配分」と事業戦略の観点での「リスクプロファイルに見合った各事業のリターンの向上」の実現こそが目的である
POINT3:戦略検討におけるROICの使い方 全社戦略の観点では、事業特性に応じ「ROICの欠点を補う指標の併用」「事業特性に応じた評価基準の調整」で、「全社経営資源の最適配分」の実現に近づく。事業戦略の観点では、事業特性に応じた、アクションに結び付くROICツリーの展開が「各事業のリターン向上」の肝となる |
ハイライト
I エネルギー・インフラ業界におけるROIC導入の現状:ROICは徐々に浸透しつつあるものの、いまだ道半ばである
中長期的かつ持続的な企業価値向上を目指すコーポレートガバナンス改革の潮流は、市場からの要請を受け不可逆となっています。特に東京証券取引所が2022年に、高いコーポレートガバナンスを満たす企業を選定するプライム市場を設立したことに続き、昨年PBR1倍割れの企業に対し、具体的な改善策の開示を求めたことで、このトレンドは一段と加速しているといえます。
エネルギー・インフラ業界のPBRは、図表1の通り東証プライム上場企業の平均に比べ低いことから、企業価値評価が他業種に比べて肯定的でないことが示唆されます。したがい、当該業界において株価を意識した経営の改善のためにも、ROICやWACCなど収益性を評価する指標を経営に取り込むことで、調達した資本が要求するリターンを十分に出せている状態を作り出すことは、喫緊の課題といえます(図表1参照)。
図表1:単純PBR倍率(プライム市場、2024年5月末)
実際に、当該業界の一部企業においては株主から見た効率性の指標であるROEに加え、事業の効率性を見るROICの導入が進みつつあります。
しかしながら、ROIC導入には課題も多く、たとえばあるインフラ企業は、比較的短期間でリターンを生み出せる既存事業と脱炭素社会実現に資する新規投資のようにリターンを生み出すまでに超長期的な視点が必要になる事業が存在する場合、双方に一律にROICを適用すると、中長期で大きなリターンが得られると期待される新規投資の機会を逃す懸念があると述べ、導入には一定の工夫が必要であるという考えを示しています。またあるエネルギー企業は、特に石油精製事業において連産品を取り扱うため、事業別にROICを把握することが困難であり、結果として、収益責任が曖昧になってしまうという懸念を挙げています。このようにエネルギー・インフラ業界においてはROIC導入は一部進みつつあるものの、経営意思決定への活用は未だ道半ばであるというのが現状です。
II ROICの使い道:事業別ROICを用いて全社における各事業の位置づけを把握するとともに、てこ入れや撤退のポイントを見極め、全社ROICの向上につなげていく
外部公表用の全社ROICは、それ自体は多様な事業の集合体の利益および利益を創出するための資本の合計値によって計算される結果指標であり、企業内において、経営意思決定を行う目的では事業別ROICがもっぱら利用されています。
ROICを活用する主な目的は全社戦略の観点での「全社経営資源の最適配分」のための投資や撤退の意思決定と事業戦略の観点での「各事業のリターンの向上」のための各KPIの動向の見える化や責任の所在の明確化です(図表2参照)。
図表2:事業フェーズごとのROICの活用
したがって、ROICは投資や撤退等の意思決定ができ、リターンの責任を明確にできる程度まで細分化された単位で算出されることが望ましいことです。一方で、事業を細分化したサブセグメント単位や製品単位のように細かく分解しすぎると、PL・投下資本ともに配賦が占める割合が大きくなるため、サブセグメントや製品の責任者がROICを管理することが困難になるという問題が発生しますし、また、配賦のプロセスや計算に時間を要し、ROICの算出それ自体が目的化してしまうケースもありえます。したがってROICの本来の目的に照らし合わせた時、事業単位程度の配賦が大きく発生しない独立した単位での評価が望ましいと言えます。(図表2)
III エネルギー・インフラセクターにおけるROIC導入時の留意点:ROIC偏重型の経営判断・事業評価は事業運営の視点で必ずしも適切なものにならないリスクが大きい
ROICの導入にあたっては、一般論としていくつか導入を妨げるポイントが存在します。特に投下資本に関するデータを都度負荷をかけずに正しく抽出するのが困難であること、短期的志向に陥る可能性を払拭できないこと、事業部門の取組みがサイロ化し個別最適に陥る懸念があること、ROIC導入にあたってのルールや活用方法が明確になっていないことなどが挙げられます(図表3参照)。
図表3:ROIC導入・活用に向けた壁
加えて、エネルギー・インフラ業界は、大きく3 つの理由からROIC偏重など相対的にROIC重視の経営意思決定とは必ずしも相性が良いとは言えません。
1つ目の理由はROICが初期の大量資本投下からの長期回収型のビジネスモデルを評価しないことです。当該業界においては、有料道路や発電所に代表されるように、初期段階に大量に資本投下を行い、かつ、投資回収には長期間を要するビジネスモデルが主流です。加えて、社会基盤として重要なエネルギー・インフラの施設は、信頼性や安全性の確保が先んじて求められるため冗長性を持たせた投資が必要であること、かつ、時には規制の影響を受けることから、純粋に効率性・収益性のみを追求することが困難なシーンもありえます。一方でROICは初期投資の大きさによっておよそその高低が決まることから、初期の大量資本投下からの長期回収モデルは、ROIC単独の評価においては高評価を得ることが難しくなります。
したがってROICにのみ依拠した経営判断は、投資すべき領域への対応が遅れたり、リスクプロファイルに見合わない投資判断を実行してしまうリスクをはらんでおり、安定供給のために冗長性を持たせた災害対策・リスクの低い安定事業への投資や、短期的にROICを押し下げる効率性の高い設備への投資、技術的商業的実現性の不確かな新規技術開発への投資の優先度が低いと判断されてしまいます(留意点1)。
2つ目の理由は、事業多角化を図っている企業が多いなかで、多角化した各事業をROICで横並びに評価することが本業に不利に働く可能性があることです。エネルギー・インフラ業界の多くの事業者は、本業とのシナジーが見込まれる他の領域に多角化を進めています。鉄道事業者が不動産事業に取り組んだり、エネルギー事業者が通信分野のネットワーク事業に取り組んだりしているのがその例です。「ROICは初期投資の大きさによっておよそその高低が決まる」と前述した通り、本業のROICよりも、初期投資のかからない周辺領域におけるROICの方が高いことはままあることから、ROICのみで判断すれば多角化した事業への投資事案の評価が高くなる場合があります。しかし、これらは本業の収益に下支えされていることも多く、本業が軽視されれば、シナジー喪失につながる可能性があると考えられます(留意点2)。
最後に3つ目の理由は、当該業界においては重要な意味を持つESG等の非財務指標が勘案されないことです。国立環境研究所の調査によると、日本の電気・熱配分前CO2 排出量1の業界別シェアは、エネルギー関連業界が4 0.4%でトップとなっています。そのため当該業界において環境負荷低減は特に大きな課題ですが、ROICのみに依拠する場合、初期投資が大きく回収期間の長い再エネへの投資などについて、適切な経営判断がなされない可能性があります。実際に、一部のエネルギー事業者が再エネから化石燃料へ回帰する動きが見られます。これは、再エネ発電事業がESGの観点から見れば投資が求められる領域ですが、財務的には決して好ましい領域とは言えないためです(留意点3)。補足として、エネルギー・インフラ業界においては、そもそも資金調達コストが他業種に比べ総じて低い傾向にある点にも留意すべきです。ROICは、本来的には投下した資本に対するリターンを示すROICから、調達した資金に対するコストを示すWACCを引いた値である ROIC Spreadを活用することで、リスクに見合ったリターンが創出されていたかを見るべきですが、ROICのみで効率性の評価を行った場合、WACCとの関係性が必ずしも適切に評価されません。
1電気・熱配分前排出量は、発電や熱の生産に伴う排出量を、その電力や熱の生産者からの排出として計上した値
IV エネルギー・インフラセクターにおけるROICの効果的な使い方
前述の通り、ROICをはじめとするKPIの導入はそれ自体が目的ではなく、全社戦略の観点での「全社経営資源の最適配分」と事業戦略の観点での「各事業のリターンの向上」の実現こそが目的です。
全社戦略におけるROICの使い方:複数軸での評価とハードルレートの調整
先に述べた通り、エネルギー・インフラ業界とROICの相性は必ずしも良いとは言えません。一方で、ROICをはじめとした効率性指標の導入は企業価値向上に向け不可避な論点です。このジレンマを越えるためには業界特性を踏まえた上で調整を加えることで、当該業界においても各事業を適切に評価し、経営意思決定に効率性の観点を取り込むことで、事業の適切な評価に基づく全社戦略の進化が可能となります。
上記1~3の留意点を勘案すると、全社戦略の観点では、ROICだけでなく「A他指標の併用」で評価すること、算定されたROICに「B 事業別WACCを加味した調整を行うこと」で、ROICの欠点を補いつつ効率性の観点を取り入れた経営意思決定ができる状態を創出することの2つが求められます。留意点それぞれへの対応の方法を概説します。( 図表4、5参照)
図表4:ROIC導入の障壁を越えるための打ち手
図表5:障壁を越えるための打ち手
まず留意点1に対しては、長期的視点を補うため、たとえば成長率等の財務指標を掛け合わせることが考えられます。ROICを短期的に収益性・効率性を評価する第一軸として設定したうえで、中長期的な成長性評価を実施するため、売上高や営業利益率等の成長率(CAGR )を第二軸に設定して補足するというものです。
これにより、ROICのみでは低く評価される可能性のあるエネルギーやインフラ事業でも、一定その評価を調整する事が可能となり、二軸で評価することで、事業を成長・育成・維持・再構築の4領域に区分することや、その区分を事業再編に向けた判断基準とすることが出来ます。また、ハードルレートに関しては、信頼性が最重視される領域においては、冗長性を考慮し事業別ROICの目標値を調整するといった対応が求められます。ただし、ハードルレートの引き下げは、あくまでもWACCが下限であるという点には留意が必要です。
留意点2に対しては、収益規模の観点を補う財務指標を併用することが考えられます。営業利益の大きさや、投資した資本に対してどれくらいのリターンを生み出したかを把握する指標であるEVA(Economic Value Addedの略、日本語では「経済的付加価値」)等が例として挙げられます。これらの指標を併用することで、多角化された事業と比べて本業を不利に評価してしまうリスクを避けることが出来ます。また、事業別に調整したWACCを用いて評価する事も有効であると考えられます。たとえば鉄道事業者において、本業の鉄道事業と多角化された不動産事業について評価する場合を考えます。鉄道事業単体の収益性はそれほど高くないものの、シナジー効果により不動産事業の収益拡大をもたらしている可能性があります。そういったケースにおいては、事業ごとにROICを評価する際の基準として、鉄道事業を評価する際の基準としてやや低く、不動産事業はシナジー分を加味してやや高く設定する等の調整が必要であると考えられます。そうすることで、本業を不利に評価してしまう可能性を回避することが出来ます。
最後に留意点3については、非財務指標と組み合わせて事業を評価することが考えられます。事業再編ガイドラインにおいて、自社の事業ポートフォリオがサステナビリティの観点から適切か否かを評価に織り込むことが求められているため、すでにESGに関する評価基準を設定していればそれらを適用することも可能であると考えられます。もしそうでない場合においては、ESG指標であれば、FTSE、MSCI、S&P Global等のESG格付け機関の評価基準等を参考に評価軸を設定することが可能です。1、2と同様に、評価基準の調整も有効です。再エネ電源開発への投資を始め、従来事業と比較して収益性等は低いもののESGの観点から投資したほうがよい領域があり、これらを他領域と同一の評価基準で評価することは適切とは言えません。
事業戦略におけるROICの使い方:「意味のある」ROICツリーでの分解
事業戦略の文脈におけるROICの使い方としては、ROICツリーの活用が挙げられます。( 図表6参照)
図表6:ROICツリーの活用
ROICツリーとは、ROICを頂点にパラメータに分解したものであり、各パラメータのモニタリングや事業の改善に向けたドライバーの特定に役立つ樹形図です。樹形図が事業特性を加味した適切な展開となっていれば、樹形図の最下層を成すパラメータごとに過去からの推移等をモニタリングし、どこに課題があるかを特定することが可能です。課題特定後は、その課題を解決していくために必要な取り組みを立案・実行していくことになります。図表6 では、電力会社を例として、各パラメータにおいて課題解決に向け求められるアクションの例を記載しています。たとえば、運転資本回転率の向上という点においては、サプライヤーとの支払い条件の交渉や見直し等による支払いサイクルの最適化等が挙げられます。加えて、WACCの低減策も、リターン向上につながることから、経営改善に向けた有効な手段の1つです。たとえば、脱炭素化に向けたトランジションファイナンスを活用し、負債利率を引き下げ、かつD/Eレシオを引き上げることで、WACCを低減が可能である。これらはあくまで例であり、事業改善に向けては当然各社の課題に合わせた最適な施策の実行が可能となります。
ROICツリーに基づきてこ入れのポイントを特定し、たゆまずてこ入れを進めるためのコツは3つあります。
1つ目は、事業別の特性を生かした分解をすることです。「分解のための分解」ではなく、アクションにつながる課題を導出できる切り口であることが求められます。この観点に基づき、ROICツリーの分解の構造が事業間で異なることは、アクションにつながる分解である限り許容されます。
2つ目は、分解された要素の最下部のパラメータに関しては、明確に責任者を置くことです。どれだけ細かくツリーを分解しようとも、責任者なかりせば、てこ入れは誰の所掌でもなくなってしまいます。
3つ目は、各ドライバー間のトレードオフに留意することです。たとえば、コストダウンを目的に生産部門が生産量を増加させれば、単位当たりの固定費負担を低下させられますが、売上増加につながらなければ、過剰在庫による損失発生を引き起こしかねません。したがって、他のドライバーに与える影響を勘案したうえでのアクションの検討が重要です。
V さいごに
ROICは、投下資本の収益性・効率性を評価することができるため、その活用は企業価値向上のための重要な手段ではあります。一方で、導入にあたっては本稿で述べたような業界特性や、もちろん個別企業別のリスク受容度も踏まえ慎重に準備を行うことが肝要となります。また、ROIC導入、さらには継続的な仕組みの更新は骨の折れる活動であることから、「ROICの導入」という手段が目的にすり替わる危険もはらんでいます。企業価値向上に向け、全社戦略の観点での「全社レベルでの経営資源の最適配分」と事業戦略の観点での「リスクプロファイルに見合った各事業のリターンの向上」の実現という目的を見失うことなく、効率性の観点を経営に取り込む企業が増えることを願ってやみません。
執筆者
KPMGジャパン エネルギー・インフラストラクチャーセクター
パワー&ユーティリティー セクターリーダー
グローバルストラテジーグループ
KPMG FAS
執行役員 パートナー 鵜飼 成典
KPMG FAS
ディレクター 六田 康裕