M&Aにおける年金・退職金制度の対応
本稿は、M&Aにおける年金・退職金制度に関するデューデリジェンスや、買収後の制度引継ぎ・統合における対応について、これまでの支援経験を踏まえてポイントを解説します。
本稿は、M&Aにおける年金・退職金制度に関するデューデリジェンスや、買収後の制度引継ぎ・統合における対応について、これまでの支援経験を踏まえてポイントを解説します。
企業間競争の激化やビジネス環境の変化を受けて「選択と集中」や規模拡大を図る動きが広がり、足元ではM&Aが活発に行われています。M&Aの成功には、事前調査(デューデリジェンス)と事後の引継ぎ対応の両方が重要ですが、近年は企業年金・退職金制度の調査や事後対応において専門家が支援するケースが増えています。背景として、一般に負債規模が大きく、またさまざまな変動リスクに曝されていることから財務会計上のインパクトが大きいこと、法令や積立基準などが複雑で制度の引継ぎが難しいことが挙げられます。
本稿は、M&Aにおける年金・退職金制度に関するデューデリジェンスや、買収後の制度引継ぎ・統合における対応について、これまでの支援経験を踏まえてポイントを解説します。
なお、本文中の意見に関する部分については、筆者の私見であることをあらかじめお断りいたします。
ポイント
POINT 1
年金・退職金制度は重要な労働条件の一部としての側面と会計上の負債という側面があり、企業買収においてもこの両面から影響や取扱いを検討する必要がある。
POINT 2
年金・退職金制度の事前調査(年金デューデリジェンス)では、主に負債評価や制度引継ぎの観点から調査を行うことになる。負債評価の観点からは、退職給付債務算定に用いられる計算基礎が直近の状況を反映しているか、年金資産がある場合は直近の金額がどのように変動しているかなどがポイントとなる。また、未引当の給付や掛金変動についても、企業価値評価の観点から影響額を分析することもある。引継ぎの観点からは、原則として労働条件を維持する必要があることに照らして、現行の制度設計や給付水準を調査し、買収後の運営に大きな課題がないかを確認することが重要である。
POINT 3
買収の契約締結後の対応としては、事前調査で検出された課題を踏まえ、新設制度の詳細設計や買手の既存制度への引継ぎ方法(必要に応じて経過措置や従業員への金銭補償の実施)の検討が必要となる。また、企業年金を実施している場合は、制度運営委託先である年金受託機関を交えたスケジュールやタスクの確認も必要である。
Ⅰ企業買収における年金・退職金制度の検討事項
年金・退職金制度は、一般に従業員報酬制度の一部として設けられており、重要な労働条件の一部と言えます。一方で、確定給付企業年金や退職一時金制度は、将来の給付義務に対して企業会計上の負債計上が求められるという特徴もあります。企業買収においても、この人事制度としての側面と、会計上の負債という側面の両方から、影響や取扱いを検討することになります。
人事制度の側面からは、買収後にグループ人事戦略に合わせて制度を見直す必要がないか、あるいは対象会社を買手企業と合併させる場合にはどのように制度を統合させるか、といったことが主な論点になります。対象会社の給付水準が高い場合に買手の給付水準に合わせる際には、労働条件の不利益変更を避けるために経過措置の検討も必要になるかもしれません。
また、会計上の負債の側面からは、通常は企業価値評価における負債の1つとして取り扱われますので、対象会社の会計上の負債計上額が実態を表しているかの確認が重要となります。年金・退職金制度の負債の計算には見積もりの要素が多く、また会計基準で認められている計算方法が必ずしも企業買収における時価評価の目的に合っているとは限りません。さらに、企業の一事業を切り離す場合には、売手から提示されるカーブアウトBSでどのように対象事業の負債を算定しているか、実際に切り離す際にそれがどの程度変動するかといったことも確認すべきでしょう。
このように、年金・退職金制度の論点は多岐にわたる一方で、年金法令や負債計算は複雑であり、適切な調査・分析には専門的知識が求められます。KPMGの年金アドバイザリーチームは、クライアントのM&Aの支援に関与してアドバイスを行っています。この経験を踏まえて、Ⅱ章では企業買収前の年金・退職金制度の調査(年金デューデリジェンス)におけるポイント、Ⅲ章では企業買収後の制度引継ぎ・統合における対応について解説します。
Ⅱ年金デューデリジェンスのポイント
年金デューデリジェンスでは、前述のとおり企業価値評価のための負債の特定が重要となります。また、労働条件維持と円滑な引継ぎの観点から、企業買収後の制度引継ぎにおける論点についても事前に確認しておくことが有効です。
なお、実際の調査では、関連する財務面の調査(財務デューデリジェンス)や人事面の調査(人事デューデリジェンス)の一部として実施したり、それらのメンバーと一緒に進めていくことが有効です。最近では、事業の切離しによるコスト増加や課題の調査(セパレーションデューデリジェンス)の一部として実施するケースも増えてきています。
1. 負債評価の観点
退職給付に係る負債は貸借対照表における負債項目の1つで、退職給付債務(以下、「PBO」という)から、年金資産(存在する場合)を控除して計算されます。そのため、直近の退職給付債務額や年金資産額を調査・分析することが主なポイントになります。以下のような調査項目について、必要に応じて金額的影響を買収価格に織り込んだり、事後的な価格調整を売買契約書に盛り込んだりといったことを検討します。
(1) PBOの計算基礎
PBO計算に用いられる割引率、退職率、予想昇給率、死亡率などの計算基礎が直近の状況を反映しているかを確認します。
このなかでも変動しやすくPBOへの影響が大きいのが割引率です。割引率は国債や社債の利回りに基づき設定されますが、2022年以降は利回りが上昇傾向にあります。たとえば、KPMGが算定した年限10年の社債利回りは2023年2月末で1.09%となっており、1年前の2022年2月末の0.45%から0.64%ポイント上昇しました。これは一般的な制度の場合、PBOにして6~9%程度の減少に相当します。反対に利回りが低下する局面では、PBOは増加することになります。
また、日本の会計基準には「10%重要性基準」(期末に割引率を洗い替えた場合のPBO変動幅が10%未満と推定される場合に、前期末の割引率を継続可能)が存在します。この基準が適用されている場合、会計基準上は認められる割引率であっても、企業価値評価目的で割引率を足元の利回りに見直すと、最大で10%程度PBOが変動する可能性があるため要注意です。
(2) 年金資産の変動
年金資産についても、一般に市場運用がされていて、常に価格が変動していますので、直近の金額を分析することが望ましいと言えます。
特に最近では、大幅な株価変動や為替変動が発生している時期もあるため、直近の年金資産額を入手したり、直近までの運用市場環境の変化を考慮して、年金資産の想定変動額を分析することが有効です。
(3) 未引当の退職給付制度
確定拠出年金(以下、「DC年金」という)が負債計上不要であることはよく知られていますが、確定給付型の制度であっても、企業会計上は負債が計上されていない場合があります。一例として、(a)年齢や役職等の一定要件を満たした場合にのみ加算される給付金、(b)恒常的に実施されている早期割増退職金、(c)複数事業主によって設立された確定給付型企業年金などが挙げられます。
(a)は当該給付の発生確率を、(b)は将来の支給確率や金額の見積もりを、(c)は各事業主に紐付く年金資産額を、それぞれ合理的に算出できない場合などにおいて、会計上は負債計上が不要と判断されます。ただし、会計上は負債計上が不要でも、金額的に重要な場合は、企業価値評価上は時価評価の観点から織り込んだ方がよいと考えられます。また、上記(a)~(c)の見積もりの可否に関する考え方の相違から、買収後に買手側の監査人が負債計上を求める可能性もないとは言えません。そのため、必要に応じて当該給付に関する情報を入手して分析を行うことが考えられます。
(4) 簡便法適用会社
日本の会計基準では、中・小規模の会社(原則として従業員数300人未満)は簡便的な方法でPBOを計算することが認められており、対象会社でそれが採用されている場合があります。また、国際財務報告基準にはそうした規程はありません。そのため、買手企業の制度と統合することで制度適用者数が300人を上回る場合や、買手企業が国際財務報告基準を適用している場合には、買収後に簡便法を継続適用できない可能性があります。このような場合は、原則的な計算方法を適用することによるPBOの増加額を分析します。
(5) カーブアウト数値の作成前提
近年では、会社全体ではなく、一部事業を売却する取引が増えています。対象事業にかかる会計数値(カーブアウト数値)は企業会計上の報告値ではなく、当該取引のために作成されたものであるため、その作成前提についてはよく確認する必要があります。
PBOや年金資産のカーブアウト数値は、人数比などによる按分計算で算出されることが多く、移管対象者の年齢構成などに偏りがある場合には、買収後に実際に計上される金額との差が生じます。また、対象事業を退職した年金受給権者は移管しないのが一般的であり、移管資産の計算に際しては受給権者分を先に確保したうえで按分するのが一般的です。ところが、カーブアウトBS作成時に、受給権者のPBOや年金資産も含めて按分計算をしてしまっているケースが散見されます。
加えて、現行制度からの脱退時に買手側に移管される年金資産は年金法令に規定された負債の比率で計算されますが、PBOは規定されていないため、人数比やPBO比(会計上よく用いられる方法)により計算された年金資産額とは異なることにも注意が必要です。
(6) 海外の制度
海外子会社の場合は労働法令や労働慣行、年金に関する規制が相違するため、売手企業が認識していないリスクがある場合も想定されます。加えて、デューデリジェンスフェーズでは取引の秘匿性を保つために、海外子会社を巻き込んだ深度ある情報開示や調査がされない可能性もあります。よって、現地の慣行や法定の給付などに照らして重大なリスクが予見される場合には、その内容を売手企業と協議することもあります。
(7) 退職給付制度の見直しの予定
近年では従来型の人事制度を見直す企業も多く、定年延長などに伴う年金・退職金制度の変更もよく行われています。クロージング日までの間に制度が変更される予定がある場合には、企業価値評価にも当該変更を織り込むことを検討します。また、制度変更が完了したばかりの会社では、売手から開示される会計数値に当該変更がまだ反映されていない可能性があるため、反映の有無を確認します。
(8) 追加掛金拠出額
これまでに述べたPBO・年金資産の変動以外にも、買収にあたって対象会社からの資金流出が想定される場合には、企業価値評価に反映することを検討します。
企業グループで共同実施するDB年金からの実施事業所の離脱では、年金財政上(会計上とは異なる)の積立不足が存在したり、積立不足を償却するための特別掛金が設定されていることがあります。その場合、脱退時に年金規約に定める掛金の一括拠出が求められることがあります。そのため、年金財政状況や年金規約の定めについて確認し、必要な場合には想定負担額を分析します。
2. 制度引継ぎの観点
年金デューデリジェンスのもう1つの目的として、制度引継ぎを見据えて制度内容を確認したり、引継ぎにおける重要な課題がないかを確認します。
過去には、対象会社の年金制度の給付水準が非常に高いためこれを将来的に減額できるかどうかが取引の主要な論点となったケースや、買手側はDB年金を持たないというポリシーを持っていたために対象会社のDB年金をDC年金などに移行できるかが取引成立の鍵となったケースもあります。
(1) 制度内容
DB年金、DC年金、退職一時金といった制度形態を確認するのはもちろんのこと、給付設計についても確認します。たとえば、年金の給付利率が高かったり、終身年金があるなど恵まれた設計の場合、買収後に従業員などの同意を取得して給付設計を見直したり、DB年金を廃止するといった対応の難易度が高くなります。また、買手側に存在しない早期退職割増や役職定年加算などがある場合も、買収後に取扱いを検討する必要が出てきます。
(2) 給付水準
給付設計に加えて、買手制度との統合や調和を見据えて給付水準を確認することも重要です。たとえば、売手企業が実施するグループ年金に、その子会社である対象会社が加入している場合、小規模の会社でも給付水準が高く、買手企業の水準を上回っているということもよくあります。
(3) 売手の制度引継ぎの想定
一部事業ではなく会社全体の買収で、グループ年金にも加入していない場合は、現行制度を継続することが基本的に可能です。しかし、一部事業の買収であったり、グループ年金に加入している場合は、現行制度から新設制度や買手の既存制度への移行が必要となります。また、このような状況で対象事業の人員規模が小さい場合はDB年金の維持が難しく、現実的には他制度へ移行せざるを得ないということもあります。このようなケースでは、年金法令上、いくつかの移行方法(図表1参照)が存在します。また、取引によっては、売手が従業員の処遇条件を変更しない期間を数年間設けることを希望する場合もあります。
売手の想定する移行方法や労働条件の維持期間によって引継ぎの難易度や課題が変わってきますので、よく確認したうえで引継ぎ方針を検討していく必要があります。
(4) 引継ぎのスケジュール
前述の引継ぎ方針とも関連しますが、現行制度から離脱して新設制度や買手の既存制度に移行する場合、準備期間を考えると、クロージング日での移行はスケジュール的に難しいことが多いです。これは、企業年金について年金受託機関での掛金計算や厚生労働省への申請が必要となるためです。そのため、クロージングから年金制度移行までの期間の制度運営についても確認する必要があります。
図表1 DB年金の制度移行方法と留意点
Ⅲ企業買収後の制度引継ぎ・統合における対応
Ⅱ章では企業買収前の調査のポイントについて述べてきましたが、Ⅲ章では買収決定後の、制度引継ぎ・統合における対応について解説します。
カーブアウトもなく現行制度をそのまま継続する場合には、通常、大きな問題は生じません。そこで、ここでは新設制度や買手の既存制度に移行する必要がある場合を想定して説明します。
1. スケジュールやタスクの整理
一般に、買収の契約を締結して取引を公表するまでは、機関投資家でもある企業年金の受託機関(信託銀行や生命保険会社)への相談が難しいため、実際には契約締結後に受託機関の対応期間なども踏まえた詳細なスケジュールやタスクの整理を行っていくことになります。一般的なスケジュールやタスクは、図表2に示すとおりです。
また、契約締結後も、年金・退職金制度の取扱いや価格調整方法についての協議事項が残っているような場合は、買手と売手との協議を継続します。また、現行制度に一定期間継続加入する場合には、制度運営事務の役割分担や費用負担などについても協議を行う必要があるでしょう。
別制度への移行が必要な場合でも、準備のためクロージングから1年以内を目途に移行することが多いですが、制度設計を大きく見直す場合はそれ以上の期間を要することもあります。また、1年以上の労働条件維持期間が設けられている場合には、それが終了する時点で人事制度の移行と併せて年金制度の移行を行うことも選択肢になってきます。
2. 制度引継ぎの詳細の決定
デューデリジェンスの実施期間中は開示される情報が限られており、また時間的な制約もあるため、買手制度と売手制度を細かく比較して、移行後の制度設計の詳細を検討するのは困難なことが多いです。そのため、主に契約締結後に時間をかけて新制度の詳細の検討を進めていくことになります。
なお、買手企業と売手企業による人事分科会や年金分科会を設けて、新制度に移行するまでの運営方法や制度移行の進め方について協議していくこともよく行われます。
買手側と売手側との給付水準の格差が大きい場合には、制度統合が企業買収後の大きな課題となる場合もあります。給付水準が低い方の制度に合わせていくような統合の場合、経過措置が不十分だと従業員の同意が得られなかったり、従業員モチベーションの低下や人材流出によって企業買収の目的が達成できなくなる恐れがあります。
一方で、経過措置を手厚く設定した場合には財務的な負担が増すことに加え、若年層の従業員が退職するまでの長期にわたる経過措置は管理上の負担となります。代わりに従業員への金銭補償を実施する場合も、大きなコスト負担となる可能性があります。
このようなケースでは、十分な期間を取って統合の検討を行うことが重要です。
図表2 新制度に移行する場合のスケジュールや主要タスクの例
執筆者
有限責任 あずさ監査法人
萩原 浩之/ディレクター
立本 貴大/マネジャー