昨今、ロシア・ウクライナ情勢に関する痛ましいニュースが連日報じられています。現在の情勢は企業のサプライチェーンへの直接的な影響のみならず、さまざまな業務活動にも影を落としはじめました。ロシア・ウクライナ情勢が象徴するように、昨今の地政学的変動の中で、各国において経済安全保障上の規制強化や制裁の執行が活発化しており、企業の貿易活動や技術情報の流出対策等にも見直しの必要性が高まっています。このような地政学・経済安全保障に関わるリスク対応は、複合的なリスク観点からの経営判断を要するものになるため、経営層を支える各部門、特に管理部門にとっても中長期的な取組みと体制整備が求められる課題です。
本稿では、地政学・経済安全保障リスクへの対応の参考にしていただくために、リスク顕在化時における事業判断の特徴、関連するリスクの概要、企業としての備え(体制整備等)を中心に紹介します。
なお、本稿はKPMG Insight7月号所収の記事を、3回に分けて掲載するものです。全文のPDFは各回にリンクがありますが、目次からもそれぞれの回をご覧いただけます。
目次
Part1
地政学・経済安全保障リスクの考え方
・経営の基軸の1つとなった地政学
・地政学と経済安全保障リスクの意味
・地政学を巡る基本的視座
リスク顕在時の企業の対応方法/パターン
・リスク顕在化時の事業判断パターン
・リスク顕在化時の事業判断の特徴
Part2
地政学・経済安全保障リスクの概要
・安全保障貿易規制・制裁
・情報セキュリティ
・人権/役職員等の安全
・サプライチェーン
Part3
地政学・経済安全保障リスクに対する事前の備え
・地政学・経済安全保障リスク管理体制
・危機シナリオ分析と対応策
・インテリジェンス機能
各国で進むサプライチェーン・技術開発の強化政策を受けて
まとめ
POINT 1:地政学・経済安全保障リスクの視点 地政学・経済安全保障リスクの代表例として、貿易規制・制裁、投資規制、情報セキュリティ、人権、役職員等の安全、サプライチェーン等、多岐にわたるリスクが挙げられる。これらへの対応は単独部門によるものではなく、各主管部門、グループ会社等との連携が重要となる。 POINT 2:リスク顕在化時の事業判断の主な検討要素 地政学・経済安全保障リスク顕在化の際に事業を維持する場合の主な検討要素として、事業の公益性・公共性、規模等が挙げられる。一方で、事業を停止・縮小・撤退をする場合の主な検討要素には、サプライチェーンの混乱、各国の制裁、レピュテーション、役職員の安全等が挙げられる。 POINT 3:リスク顕在化時の事業判断の要諦 地政学・経済安全保障リスクに直面した際の事業判断は、最終的には自社の理念やパーパス、そして経営者の信念に沿ったものであるかで決断することになる。それを支えるためには、グローバル世論やステークホルダーの声を適時・適切に経営層に共有することと平時からの思考訓練が不可欠である。 POINT 4:地政学・経済安全保障リスク管理体制 地政学・経済安全保障リスク対応の統括部門を設置する場合、各関連リスク主管部門との円滑な施策の連携ができる体制にするために、統括部門の専任者の他に、部門間の橋渡しをする担当者を設置することが考えられる。また、地政学・経済安全保障リスクを管掌するCROやCLO等は、平時においても施策展開を推進する司令塔としての役割を担うことが期待される。 |
地政学・経済安全保障リスクの考え方
経営の基軸の1つとなった地政学
近年、地政学がビジネス上のバズワードになっています。当初は日中関係、ここ数年は米中新冷戦、そして現在はロシア・ウクライナ問題がその話題の中心になっていることは言うまでもありません。特に、ロシア・ウクライナ問題は、21世紀の現在において、まずは起こりえないと考えられていた先進国同士の戦争をきわめて深刻なレベルで想起させるものであり、欧米諸国のみならず世界の国々に大きな緊張をもたらしています。また、この問題の注目点の1つは、経済的な便益が軍事的目的に優るであろうという認識、言い換えれば経済関係の強化とグローバル化が軍事的紛争の回避につながる、という幻想をものの見事に壊してしまったことです。特に、日本企業においては、先の大戦への反省、そして日米安保の傘もあり、国家として軍事への関与が「控え目」であったこと、またその中で日本企業は高度経済成長の恩恵を大いに受けたことから、長らくの間、政経分離のビジネス文化が定着していました。もちろん、その時々の政治・軍事情勢による影響回避や規制対応等は行ってきてはいるものの、どちらかといえば対処的なものであり、個々の事業判断にかかる外部環境要因の1つとしてみていたことは否めません。
今、求められることは、デジタル、サステナビリティと同様、乗りこなすべきメガトレンドそれそのものへの対処が企業価値を左右する命題の1つとして、常に「経営のテーブル上にのせるもの」として地政学を捉えていくことです。
地政学と経済安全保障リスクの意味
地政学という言葉は、さまざまな使われ方がされていますが、国の地理的な条件に基づいて、他国との関係性や国際社会における行動を考察するアプローチとして語られることが多く、国家における戦略論の側面を持っています。これを企業の視点で捉えると、たとえば、領土問題や国際的軍事同盟への加入を巡る国家間の緊張関係や紛争が発生したときに、当該国・地域での生産・販売等の企業活動への支障や原材料の高騰、サプライチェーンの混乱、役職員の生命・身体等への危険等のリスクへの対応が論じられます。
一方、経済安全保障とは、国家と国民の安全を経済面から確保することを意味します。半導体やエネルギー等の重要な物資・資源の確保、先端技術の開発・保護といった経済活動を通じて、安全保障上の脅威から国家や国民を保護する側面を持っているということです。企業の視点では、たとえば、インフラへのサイバー攻撃を通じた活動の停止、技術情報の流出、安全保障貿易規制の強化による輸出制限等のリスク対応が論じられます。
両者は異なる概念ですが、特に企業経営・事業活動の場面において、地政学リスクは経済安全保障という形で顕在化することが多く、同時に語られることが多くなります。
地政学を巡る基本的視座
昨今の地政学において、基本的視座の1つとして、間違いなく専制主義vs民主主義の図式が挙げられます。米中問題に加え、今回のロシア・ウクライナ問題によって、その流れは決定づけられたとも言えます。
実際、先般の国連人権理事会等での各国の国連投票行動をみても、ロシアへの制裁や非難において強く同調する国家の数は必ずしも“大多数”とは言えないのが実情です。中国やインド、ブラジルといった、BRICSと称される国々、また東南アジアやアフリカなどの新興国の多くが、G7を含む欧米先進国の動きとは一線を画しています。GDP、すなわち経済力による加重を行えば話は別ですが、少なくとも国の数、また人口比において、欧米先進国の価値観や振る舞いに、必ずしも同調し得ない国々が多数ある現実をしっかりと理解すべきです。
このような中で日本企業は、まさに国としての日本の置かれた地政学的な位置づけと同様に、バランスのジレンマに陥ることもあり得ます。実際に、人権問題といった地政学的ニュアンスを帯びた課題に対する発信やトップのコメント等においても、中国に大きなオペレーションを有する企業にとっては配慮を強いられるケースもあります。サプライチェーンのブロック化・コンパクト化モデルがしばし語られることが多いですが、法規制対応やコンプライアンスマネジメントにおいても、ブロック化が進む世界に適したガバナンスモデルが求められつつあります。
リスク顕在時の企業の対応方法/パターン
リスク顕在化時の事業判断パターン
実際に紛争などのリスクが顕在化した場合、企業は当該リスクが発生している国・地域における事業継続を早急に判断する必要があります。しかし、この判断は多くの企業にとって容易なことではありません。その事業判断は、おおむね(1)継続する、(2)一部事業の縮小・停止をする、(3)完全撤退する、といういずれかのパターンに分かれます。
事業を維持する場合の主な考慮要素として、事業の公益性・公共性、規模等が挙げられます。たとえば、(国策の影響を受ける)資源・エネルギー関連の大規模開発プロジェクトや、公共性が非常に高い通信インフラ事業は、事業停止・撤退の判断をすることが困難な傾向にあります。
一方、事業を停止・縮小・撤退をする場合の主な考慮要素としては、製造・販売活動等への支障を含むサプライチェーンの混乱、各国の制裁(取引禁止、SWIFTからの除外等)、レピュテーション、役職員の安全が挙げられます。特に、製造業においては、部品・原材料の調達が困難となり、生産拠点の機能の全部または一部が停止することで生産が滞り、それに伴い販売機能も損なわれる事態に陥りやすくなります(場合によっては、生産・販売拠点自体に損壊が生じるおそれもあります)。
サプライチェーンにも関連しますが、各国の経済制裁・輸出管理規制の強化により、対象の団体・個人との取引が禁止され、事業が困難になる事態もあり得ます。
また、消費者を中心として、人道的な観点からレピュテーションリスクが発生し、それによってエシカル消費に関する意識の高い欧米市場等で深刻な打撃を受けることもあり得ます。加えて、紛争地域や紛争の当事国における駐在員・ナショナルスタッフ等の生命・身体・自由への侵害も懸念されます。
なお、日本企業においては希少ではあるものの、昨今の情勢下においては、侵略国による活動に対する積極的な妨害や抑制、また被侵略国における防衛策への積極的な貢献を行う企業もあることにも注目すべきです。
このような考慮要素を踏まえて事業判断をするにあたって、(平時ではなく)リスク顕在化時においては、次項で説明する特徴にも留意する必要があります。
リスク顕在化時の事業判断の特徴
リスク顕在化時の事業判断の特徴としては、緊急性、流動性、不透明性、広汎性が挙げられます。紛争によりリスク状況が急速かつ継続的に変化し(緊急性、流動性)、事態の見通しを正確に把握しがたい中で(不透明性)、企業は役職員の安全、経済制裁・輸出規制、サプライチェーン、社内外のステークホルダーの意向、国内外世論の動向等、多くの考慮事項を踏まえて事業判断をしなければなりません(広汎性)。
このような事業判断を適切に行うためには、リスク情報を可及的に正確かつ多面的に入手でき、適時かつ果断な意思決定を可能とする体制・プロセスが望まれます。また、危機対応における実施事項、関係部門は多岐にわたるため、サイロ化した組織では機動的な対応を行うことが難しくなります。そのため経営陣、特に地政学・経済安全保障リスクを管掌するCRO(チーフ・リスク・オフィサー)やCLO(チーフ・リーガル・オフィサー)は関係部門を取りまとめ、経営者による迅速な意思決定を支える司令塔としての役割が期待されます。
また、地政学・経済安全保障リスクが顕在化した場合、前述のとおり、事業の公益性・規模、サプライチェーン、金融・経済制裁、レピュテーション、役職員の安全等を勘案のうえ、事業継続・撤退の是非が検討されますが、収益性よりも倫理的な側面や公益的な側面がより強調されます。ただし、善悪の判断や「正義」の所在を巡っては、一般的に複数の見方があることも事実です。最終的には、自社の理念やパーパス、そして経営者の信念に沿った判断が求められますが、それが結果的に「独善的なもの」や「私益を優先したもの」にみえる事態は避けるべきです。そのためにグローバルな世論、そしてステークホルダーの声を適時・適切に経営層で共有すること、そして平時からの思考訓練が不可欠です。
なお、有事に備えた組織・体制設計のポイントはPart2以降で紹介します。
執筆者
KPMGコンサルティング
パートナー 足立 桂輔
シニアマネジャー 新堀 光城
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