近年、ビジネス界ではSDGsやESGなどの重要性が叫ばれ、「サステナビリティ」という言葉に大きな注目が集まっています。他方、「デジタルトランスフォーメーション(DX)」がバズワードになりつつあるのは周知の通りですが、企業におけるDXの重要性はむしろ高まっています。このように、ポストコロナの時代に向けては、「サステナビリティ」や「DX」が企業の戦略的中心テーマになるという見解を聞くことが多くなってきました。しかし、この2つのコンセプトが互いに深く関係し合うものだと発想する方は、まだ多くないかもしれません。

そのような中、現在の事業課題に対して行っているDXと、未来を見据えて行うDXを同時に推進する「両利きのDX」に取り組み、50年先の社会を想像しながら30年先の理想を模索するなど、「サステナビリティ」を重視して経営の方向性を定義しているのが、株式会社三菱ケミカルホールディングス(以下、三菱ケミカルHD)です。

本稿では、KPMG Ignition Tokyoの茶谷公之が、三菱ケミカルHDでグループ全体のDX推進の中心として活躍されている浦本直彦 執行役員 Chief Digital Officerと対談した内容をお伝えします。(前編)

2017年から始まったDX推進〜組織も徐々に変化し始めた〜

浦本氏、茶谷

(株式会社三菱ケミカルホールディングス執行役員 Chief Digital Officer浦本直彦氏(左)、株式会社KPMG Ignition Tokyo 代表取締役兼CEO、KPMGジャパンCDO茶谷公之)※記事中の所属・役職などは、記事公開当時のものです。

茶谷:          まず、お聞きしたいのは、2021年4月1日付で三菱ケミカルHDの社長交代が発表されたことについてです。新社長はベルギー出身のジョンマーク・ギルソン氏だと報道されていますね。海外出身でいらっしゃるということで、浦本さんはじめ社内でどのような反応があるのか、非常に興味があります。

浦本:          社内からすると、初の海外からのCEO就任ということで、多少の戸惑いもあるかもしれません。しかし、逆に期待も大きいです。私自身は前職も外資系でしたし、現在の上司はChief Innovation Officerであるラリー・マイクスナーなので、それほど違和感はありません。今後、どのように会社をドライブしていくのか、組織を変えていくのか、というところにはとても興味がありますし、新しい戦略の中で私が所属しているDX推進のチームが果たす役割も、より重要になるのではないかと考えています。

茶谷:          海外からCEOを招聘するということは、明らかにグローバル展開にアクセルを踏むぞ、というメッセージだと感じられます。そのあたりについて、社内でも期待の声は上がっているのでしょうか?

浦本:          はい、私たちも数年前から海外のグループ会社へのサポートを少しずつ始めていて、現在もいくつかプロジェクトが動いています。

三菱ケミカルHDの大きな海外拠点は米国と欧州、アジアなどにあり、デジタルシフトという意味では海外拠点の方が進んでいることも結構あります。ただDXとなると、我々日本本社側には、2017年から推進に着手し始めアセットも蓄積されてきたので、それを海外のグループ会社とも共有し、その動きを加速していきたいと思っています。

茶谷:          今後が非常に楽しみですね。三菱ケミカルHDといえば、2017年4月1日に傘下の三菱化学、三菱樹脂、三菱レイヨンの3社が合併し、三菱ケミカルとして発足したことも大きなニュースになっていました。同じHDグループといえども企業文化やそもそも製造しているプロダクトが違うなど、差異が挙げられたかと思います。中でも、DXという意味では、社内インフラやデジタル・プラットフォームの違いが気になるところですが、すでに統一化されているのでしょうか?

浦本:          2017年4月の三菱ケミカル発足以来、統合効果を高めるために様々な施策を行ってきましたが、その流れのひとつとして、2021年4月にかなり大きな組織再編が行われる予定で、さらなるシナジーの発揮を追求していきます。

私としては、各事業会社の様々な組織と一緒にやっていく機会が増えそうです。三菱ケミカルHD にDXのチームが発足した当時は、周りには関連する組織がほとんどありませんでした。現在は、各社にDX推進組織や担当者があり、密な協業を行っています。また、DXの推進も含め、デジタルとITの関係も少しずつ変わってきています。我々が3年前にDX推進を始めたときには、デジタルのチームと社内のIT化を担うチームとは目標やスピード感、要件が異なることもあり、別々に動いた方がいろいろと都合が良かった部分もありました。

しかし、組織的にはいまも別ではあるものの、最近は一緒に動くことが結構多くなってきています。やはり、デジタルとITが少しずつ一体化してきているということなのだと思います。

例えば、デジタル領域の事柄では、普通は小さいプロジェクトから始めるので、PoC(Proof of Concept)をやって、プロトタイプを作って、というふうに進めていくことが多いのですが、それが実際に上手くいって、会社の業務に組み込まれていく段階になると、運用を見据えた開発やサポート体制の構築が必要になってきます。そういう段階になると、ITチームにお願いすることになるので、うまく引き継いでいく必要があります。

一方、「社内に蓄積されたデータをどう利活用していくか?」といったことが大きなテーマになってきているので、そうするとITチームと我々デジタルのチームとが一緒にデータの利活用の方法を考えたり、実践してみたり、というアプローチが必要になってきます。このような融合がいままさに始まっていて、だんだん両者が、同じ目標を共有してプロジェクトを推進する機会も増えてきています。

DX推進に不可欠なのは、社内マーケティング

茶谷:          ちなみに、3年前にDX推進を始めた時、社内では抵抗する動きはなかったのでしょうか? 多くの企業では問題になりやすいところだと思います。

浦本:          我々のチームができた時には8割くらいが外部から参加したメンバーだったので、「外から来た人たちが、よくわからないDXなるものをやっている」という受け止め方だったのではないかと想像します。

ところがそれも3年以上経って、例えばホールディングス内の三菱ケミカルの中にもDXを推進する部署が複数誕生していますし、田辺三菱製薬にもDX部があります。そうしてだんだん仲間ができてきたこともあり、DXが浸透してきているのだと思います。

一方で、まだまだ「DXって何なの?」とか、「何でやらなきゃいけないの?」「自分の暮らしや仕事にどう役立つの?」というふうに、自分ゴトになっていない方も多いのが現実です。特に、例えば、国内の各拠点に行って話を聞くと、実際にプラント操業の業務に携わっている方や営業の方々などは、どちらかというとDXがまだ遠い存在だと感じていらっしゃるかもしれません。

茶谷

しかし、そういった現場の皆さんにどうやってDXを自分ゴトとして捉えてもらうかということが、プロジェクトをスケールしていく上で非常に重要だと最近特に思うようになりました。まさにいまそういう方々へのリーチにも取り組んでいます。

茶谷:          浦本さんは前職がIBM社で、どちらかというとDXをお勧めする立場だったと思います。いまは逆に、自分でそれを受け取って、実行する立場になっていらっしゃるので、そのへんの立場の違いを感じたりすることはあるのでしょうか?

浦本:          私たちは、もちろん会社の中にいるのでプラント操業の方や営業の方と同じ会社の仲間です。しかし、仕事の内容という意味では、DXを推進する立場であり、前職でやっていたことと似ている部分もあると感じています。

その活動の最中に気付いたのですが、やはり社内マーケティングはすごく重要で、皆さんにDXを自分ゴトにしてもらうために、宣伝や議論のための場作り、研修用の教材作りなどもやっています。もちろん社外向けのマーケティングも重要です。広報や人事のチームとも協議しながら進めています。

技術負債との向き合い方。「DXは先行投資だ」とする覚悟と責任

浦本氏

茶谷:          DXを進める際、いわゆる技術負債と呼ばれるものがどうしても出てきます。あるユーザーにとっては欠かせないものだから使い続ける、という発想が古い技術のソリューションから乗り換えられない理由のひとつになっている場合も多く聞かれます。

そのような技術負債をうまく処理しつつ、新しい技術資産に変えていく働きかけも行なっているとのことですが、何か気を付けていらっしゃることはありますか?

浦本:          いわゆるソフトウェアの世界では2つの見方ができると思います。

1つ目は基幹業務に関係するものが挙げられます。化学産業は生産する製品の寿命がIT産業に比べると非常に長く、何十年も同じ製品を作っていることも珍しくありません。そのため、それを支える仕組みは長く継続される必要があります。ERPもそうですが、同じ基幹システムを長く使うことが前提とされ、システムもそんなに劇的には変わらないものです。

もうひとつは逆に、3年ぐらいのスパンでその時々の一番いいソフトウェアや機能を使って生産性を上げ、新しい価値を生むために使う、という考え方も必要になってきました。

その違いを理解してうまく使い分けることが重要なのですが、このような切り分けがなかなか認知されていないというのが実態だと思います。そのため、最新の技術を上手に使う方がいいことにも抵抗が生じてしまう。そこをどうやって乗り越えるかが重要で、解決策のひとつとして、最近はITのチームと比較的早くから共同でソフトウェアなど環境を変えるプロジェクトに取り組んでいて、運用のところまでも見据えながら推進しています。

茶谷:          デジタルトランスフォーメーションとは、ある意味で「企業の本質を変える」というコーポレートトランスフォーメーション(CX)と同義であることが多いと言えます。そうした場合、まだ見えていない結果に対して先行投資をせざるをえない部分があると思います。また、その先行投資がなければ先に進まない、というケースは多いものです。三菱ケミカルHDの中で先行投資をする際の意思決定はどのようにされているのでしょうか?

浦本:          もちろん上層部の経営戦略などの意向もありますし、逆に現場から上がってくるものもあります。幸いなことにDXに関しては非常に重要だと思っていただいており、社長をはじめ、上層部も「DX推進は必要なこと」と認識しているので、投資が実現しています。

だからこそ、もう3年以上続けてきているので、その成果を明らかにしていかなければならないとも思っています。ただ、なかなかKPIの設定と達成は難しいものです。「これができると、これだけのコスト削減ができます、あるいは売上増が期待できます」ということを一生懸命計量するのですが、なかなかKPIに必要な情報が集まらないこともあります。

「DXは本当に必要、必然的に必要なものである、投資である」と会社全体に理解してもらうことは当然大事なのですが、逆にそれにあまり甘えていても仕方がないので、どうやってKPIや優先度を定義し成果を出していくのかを、客観的に示す責任があると考えます。

DXの推進は、ともすれば「小さいプロジェクトが山のようにある」というふうに見える状態にもなりがちで、大きな戦略に基づいて小さいプロジェクトをどう選択し、位置付けていくのか? あるいは、どうやってモニターしていくのかを、きちんと責任感をもってやっていかなければならないと感じているところです。

DXによって事業はどう変わるか?

茶谷:          DXを推進した結果、いろんなものが変わっていきます。例えば、従業員の働き方やプロダクトの作り方、ビジネスモデル、あるいは流通やサプライチェーンのあり方にも変化が生じると思います。いま、三菱ケミカルHDでDXを進めるにあたって、一番大きく変わると見ていらっしゃることは何でしょうか?

浦本:          三菱ケミカルHDグループ全体を大きな領域で分けると、いわゆる研究開発を担うR&Dの部門、プラントで製品を製造する生産技術部門、そして事業部の3つに加え、それらの部門を共通して見る人事などのコーポレート部門があります。その4つが我々にとって主なDX推進のパートナーというわけです。

様々な取り組みの中で、例えば、研究開発でいま大きなテーマになっているのが「マテリアルズ・インフォマティクス」です。近年、生命科学と情報科学が融合した「バイオインフォマティクス」が大いに話題になりましたが、「マテリアルズ・インフォマティクス」は、新規材料の探索に情報科学を活用するという観点で、基本的なことは同じだと言えます。

浦本氏、茶谷

「マテリアルズ・インフォマティクス」の前に、基本的に化学会社、素材会社と呼ばれることもありますが、どのようなことをしているか、まずお伝えします。化学会社が新しい材料や素材を作るにあたっては、「硬いけど軽い素材が欲しい」とか「液だれしない塗料のための原料が欲しい」といった望ましい物性や性質のオーダーを受けて、それを満たすものを作るために配合や分子設計を化学者が考え、実験によって確かめる、ということを繰り返します。化学会社にとっての資産の源泉は、そのレシピとそれを見つけ出すノウハウ、そしていかに正確に安く製造するかというプラント操業のノウハウであると言えます。

「マテリアルズ・インフォマティクス」では、膨大な量の新素材や材料のデータをもとに、例えば「こういう物性が欲しい」という情報を入力すると、候補になる配合例や分子構造、設計を予測してくれるといったことを目指しています。いまお話ししたようなことは「逆推定」と呼ばれています。非常に難しい分野ですが、これが実現すると、経験に基づいてレシピを作成し実験して物性を確かめるという作業が自動化できるので、研究開発のサイクルも格段に早くなると期待されています。

このように、研究開発の分野では「マテリアルズ・インフォマティクス」とそのための基盤作りが大きなテーマで、流通や販売においてはサプライチェーンの可視化や最適化、といった取り組みも挙げられます。特に現在のような社会状況において、いかに現状を把握し素早く意思決定するかが鍵になります。

また、製造の分野で一番インパクトが大きいのは、「生産をいかに安定化させるか」ということへの挑戦です。実際のところ、大きなプラントを1日でも止めてしまえば非常に大きな損失が出ます。だから、そうなる前に異常を検知できると、生産計画上、非常に安定すると踏んでいます。

茶谷:          生産工程が安定しないと工程の停止や製品品質の低下など、大きな問題に発展しやすいのでしょうか。

浦本:          おっしゃる通りです。また、それだけでなく、機械が壊れるというようなことがあって自社の工程が止まれば、次の工程の会社にも迷惑をかけてしまうことになります。例えば石油化学のプラントは、次工程の会社と製品を配送するパイプラインで繋がっていて、どこかで問題が起こったらその次以降の工程にも影響が及んでしまいます。そうなると損失も大きくなるのですが、現段階では自社の工程や管理しているプラントの状況を見ているに過ぎません。しかし、本来はそうしたサプライチェーンはもちろん、研究開発から製造、流通までのバリューチェーン全体を見ることが会社の流れ全体を加速させることになるのだろうと想像しています。

茶谷:          そのあたりはまだ十分にデジタル化されていないのでしょうか。

浦本:          そうですね。「点ではやっているけれど、それを繋げていくところがまだまだできていない」という印象です。

茶谷:          「マテリアルズ・インフォマティクス」の話が出ましたが、既知の素材等の情報だけでなく試験管の中で起きていることもデータとして取り込む、といったことがすでに行なわれているのでしょうか? また、そういったことができるツールを自社開発、あるいはサードベンダーから提供してもらっているのでしょうか?

浦本:          我々のような会社では、過去の実験や操業データを大量に蓄積しており、それが大きな価値になると考えています。またそれらを活用するためのツールの内製も行っています。我々デジタルチームは、注力する技術の蓄積と横展開のために、Center of Excellence (CoE)を設立していて、この活動をリードしているのが、その一つマテリアルズ・インフォマティクスCoEです。ちなみに、テキストマイニングと数理最適化、全部で3つのCoEがあります。また、データやツールについては、ITベンダーやスタートアップも提供を開始しています。例えば、先ほど出てきた逆推定を行うには巨大なデータベースが必要で、例えば化学の論文から、「この化合物の融解温度は何度でした」といった情報をAIや言語解析の技術で抜き出してきて、それをデータベースにするといった技術です。そういうことをやっている会社も出てきています。うちでは自社開発と他社ツールの取り込みの両方をやっています。


中編に続く

対談者プロフィール

浦本氏

浦本 直彦
執行役員 Chief Digital Officer
株式会社三菱ケミカルホールディングス

1990年、日本IBM入社、東京基礎研究所にて、自然言語処理、Web技術、セキュリティ、クラウドなどの研究開発に従事。2016年、Bluemix Garage Tokyo CTO。2017年、三菱ケミカルホールディングスに入社し、人工知能やIoT技術を活用したデジタルトランスフォーメーションの推進を行なっている。2020年4月より 同社執行役員 Chief Digital Officer。2018年-2020年6月、人工知能学会会長、現在九州大学客員教授を兼務。2020年より情報処理学会フェロー。