はじめに
2025年5月、不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース(Taskforce on Inequality and Social-related Financial Disclosures、以下「TISFD」)はオフィシャルサイトにおいて、今後TISFDが取り組む内容についてまとめた文書である“Proposed Technical Scope”(以下、本文書)を公表しました。
本文書では、TISFDが2024年9月に公表した“People on Scope“で開発を表明した開示フレームワークに関して、(1)”人々”へのフォーカス、(2)フレームワークの開発における考慮事項および(3)今後の方向性の3つのポイントについて、解説がされています。各ポイントでは関連するエビデンスやフレームワーク等を引用しつつ、具体的な解説が示されたうえで、TISFDの今後の取組みの方向性について、創設パートナーからの提言という形で示しています。
本稿ではまず、“People on Scope”で示された企業・金融機関と人々をはじめとするステークホルダーの関係性の全体像を示しつつ、(1)“人々”へのフォーカスについて、解説していきます。
企業等の行動が与える影響の全体像
2024年9月のTISFD設立時に公表された“People on Scope“では、不平等・社会課題という観点からの企業や金融機関(以下、「企業等」)と人々をはじめとするステークホルダーの関係性の全体像が示されています(図1参照)。本文書でも、この全体像を念頭に、企業等とステークホルダーの関係性についての説明が含まれています。
まず、企業等の行動によってインパクトを受ける人々を「インパクトを受けるステークホルダー(Affected Stakeholder)」としています。そして、インパクトを受けるステークホルダーは、サステナビリティ報告の進展とともに、インパクトとリスク管理の観点から「組織の労働者」「バリューチェーンの労働者(上流・下流の双方を含む)」「消費者とエンドユーザー」「インパクトを受ける人々を含むコミュニティ」の4つに収斂が進んでいるとし、これらのステークホルダーが社会全体の「人々(People)」を構成するとしています。
そのうえで、企業等の行動は、意図的であるか否かを問わず、人々の状態(People’s state of being)に対して、直接的または間接的に、ポジティブなインパクトもネガティブなインパクトも及ぼす可能性があることが示されています。そのため人々に関連するインパクト、依存関係、リスクおよび機会(IDRO)について、その理解を進めることが重要であるとされています。
また、企業等の行動は、ロビー活動や税務戦略等の活動を通じて公的機関(政府)の質や健全性にインパクトを与えるほか、企業等の投資意思決定等は、国および地域の経済(市場環境)にもインパクトを与えるとしています。
一方、企業等の行動は、それを支える人々の能力や技能等に依存していると同時に、事業を展開する経済(市場環境)や、公的機関による規制環境の下にあるとしています。そのうえで、企業等の行動が人々や公的機関、経済に対し、不平等や社会課題に関するインパクトを与えた場合、企業等はそのインパクトに起因して顕在化する不平等や社会課題に関するリスクにさらされるとしています。
本文書ではこの考え方について、公的機関による調査結果やエビデンスを引用しつつ、不平等に起因して顕在化されたシステムレベルのリスクの具体例1を示すとともに、裏付けを進めている旨を示しています。
図1:企業等の行動が与える影響の全体像
出典:TISFD"People In Scope" "Proposed Technical Scope"を基に、筆者作成
“人々の状態”と、それを構成する3つの概念
TISFDは“People in Scope”において、今後の成果物の1つとして「企業や金融機関の活動・関心と、人々にとってのプラス・マイナスの結果、財務リスクと機会の関係性を明確にする概念的基礎」を挙げています。本文書では、この概念的基礎に関する検討と考え方がまとめられています。
具体的には、不平等を含む社会課題に関連するIDROを効果的に識別するためには、人々の状態の側面としてのアウトカムに着目する必要があるとしたうえで、関連性の高い構成概念として、ウェルビーイング、人権、人的資本・社会資本の3つを示しています。そして、すでに公表されている国際機関等の枠組み2を踏まえつつ、図2のように3つの構成概念を組み合わせることで、不平等を含む社会課題に関連するIDROを把握し、対応する手段を提供することができると整理しています。
図2:3つの構成概念の関係性
出典:TISFD "Proposed Technical Scope"を基に、筆者作成
1.ウェルビーイング
ウェルビーイングについて、本文書ではOECDのウェルビーイング・フレームワークを参照し、物質的条件(所得と富、雇用、住居等)と生活の質(健康、生活の安全、ワーク・ライフ・バランス等)による複数の側面に跨る構成概念であり、各側面が相互に密接に関連するものと捉えています(図3参照)。
そのうえで、企業等は、人々のウェルビーイングの状態を理解、測定し、その向上に努めることにより、自らのパフォーマンスおよび投資家のポートフォリオに影響を与えるシステムレベルのリスクを管理できるとしています。加えて、ウェルビーイングの測定にあたっては、アウトカムに焦点を当てることが必要であるとしています。
図3:ウェルビーイングの側面の相互関係の例
出典:TISFD "Proposed Technical Scope"を基に、筆者作成
2.人権
本文書では、人権について、ウェルビーイングの生活の質に含まれる側面と共通する部分が多いとしたうえで、具体的なウェルビーイングの側面を例示しつつ、人権の観点からは、最低限下回ってはならないウェルビーイングの水準の閾値として理解することができるとしています(図4参照)。
そのうえで、人権の侵害とウェルビーイングの阻害が、企業や投資家とって重大なマイナスのインパクトを与える可能性があることについて、実際のビジネスケースを引用して示し、企業等に対して、自らの事業およびバリューチェーン全体で人権を尊重し、人権リスクの防止・軽減に取り組むことが期待されるとしています。
図4:「生活の安全」における人権とウェルビーイングの関係性
出典:TISFD "Proposed Technical Scope"を基に、筆者作成
3.人的資本・社会資本
本文書では、人的資本について、OECDの文書を引用し、「個人的、社会的、経済的なウェルビーイングの創出を促進する知識、技能、能力および属性で、個々人に具わったもの」であるとしています。そして、人々のウェルビーイングの側面自体が、人的資本のストック(総量)を示すことから、人的資本の維持や創出のために、ウェルビーイングは重要な要素であるとしています。本文書ではその一例として、ウェルビーイングの側面の1つである「健康」が維持されることは、人的資本のストック(総量)の本質的な部分に繋がっているとしています。
また、人権については前に示したように、最低限下回ってはならないウェルビーイングの水準の閾値として位置づけられることから、人的資本との関係性はウェルビーイングと同様であるとしたうえで、人権の尊重は人的資本の生成に寄与する一方、人権の侵害はその毀損に繋がるとしています。
また、本文書では社会資本について、OECDの文書を引用し「共通の規範、価値観および理解とともに、グループ内またはグループ間の協力を促進する関係・ネットワーク」であるとしています。そのうえで、安全な労働環境の確保や、十分な生活賃金の支給のように、企業等が人々の人権を尊重した事業運営をすることにより、労使間の良好な関係、信頼、帰属意識の高まりに繋がり、社会資本の充実に繋がるとしています。また、これらはウェルビーイングの物質的条件および生活の質に含まれる側面とも密接に繋がるものとしています。
“人々の状態”と不平等の捉え方
本文書ではこのように“人々の状態”に関連する3つの概念を説明したうえで、不平等を「人々の状態における格差」と示し、さまざまな種類の不平等があるとしています(図5参照)。そして、不平等は、人権やウェルビーイングといった概念に対する、これまでの累積的なインパクトの結果であると同時に、更なるインパクトやリスクの要因であるとしています。
このような状況に対して、低水準のウェルビーイングに直面している人々に対する改善や、人権の閾値を確保する取組み等で、現在の不平等のレベルを改善することにより、社会や経済、ひいては企業や金融機関に対するマイナスのインパクト、リスクを軽減し、新たな機会につなげることが重要であるとしています。
図5:不平等の種類
出典:TISFD "Proposed Technical Scope"を基に、筆者作成
“人々の状態”について、TISFDの取組みの方向性
このような“人々の状態”に関する分析を踏まえて、本文書では、今後TISFDが進めるべき取組みの方向性を以下のように示しています。今後、TISFDはこの方向性を踏まえて、取組みの具体化を進めていくと考えられます。
- 人々に関連するIDROに取り組む際には、特に不平等に配慮する。
そのため、TISFDは、市場関係者の人権尊重の責任、ウェルビーイングを高める取組み、および人的資本・社会資本への投資との間の相互補完性を反映した、社会課題に対する統合的で一貫したアプローチをとるべきである。これにより、人々が豊かな生活を送り、社会の生産的な構成員としての可能性を実現し、ひいてはビジネスや市場に価値を生み出すことができる。 - 財務リスクと機会の原因となり得る、水平的、垂直的、地域に基づく不平等に関連するIDRO、および機会とアウトカムの不平等について検討する。
- インパクトを受ける可能性のあるすべてのステークホルダーグループ(組織の労働者、バリューチェーンの労働者、消費者とエンドユーザー、インパクトを受ける人々を含むコミュニティ)に関連するIDROを対象とする。これには、インパクトと依存関係、公共機関と経済が仲介するIDROが含まれる。これは、組織自身の業務に関連するIDRO、および下流と上流のバリューチェーンから生じるIDROも含まれることを意味する。
おわりに
このように、TISFDは本文書において、まず、企業等の活動・関心と、それが人々にもたらすプラス・マイナスの結果の関係性を明確にする概念的基礎について、“People In Scope“で示した全体像を引用しつつ、ウェルビーイング、人権、人的資本・社会資本の3つの要素を中心に整理を進めています。
本文書では、このような概念的基礎の整理を行ったうえで、(2)フレームワークの開発における考慮事項において、開示フレームワークの検討にとって重要となるマテリアリティのアプローチ、インパクトがリスク・機会に至る経路のモデル化等について、すでに公表されているサステナビリティ情報に関する基準等を踏まえた整理と方向性がまとめられています。次回はこれらの内容について解説をしたいと思います。
1 例えば、OECD (経済協力開発機構)が実施している「公的機関に対する信頼性調査(OECD Survey on Drivers of Trust in Public Institutions)」の2024年版の結果等を引用し、人々の所得格差の拡大が政府機関への信頼性の低下につながっていることを示している。
2 本文書のAnnex.Iでは、OECDが公表しているウェルビーイング・フレームワーク、国際連合が採択した「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(ICCPR)、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(ICESCR)、IFRS財団が公表しているIIRC国際統合報告フレームワーク等、ウェルビーイング、人権、人的資本・社会資本に関して参照した公表物の解説が含まれている。
執筆者
KPMGサステナブルバリューサービス・ジャパン
有限責任 あずさ監査法人
シニアマネジャー 瀧澤 裕也