2022年8月、政府が「人的資本可視化指針」を公表したことで、人的資本への関心が一段と高まってきています。現在、人材を中心とした無形資産開示のためのガイドラインや規制が制定されていますが、人的資本経営を実効性のある取組みとするためには「経営戦略と連動した人材戦略」と「人的資本の情報開示」の両輪が必要となります。
特に今は「人的資本の情報開示」がクローズアップされていますが、可視化だけを目的にすると、人的資本への取組みの方向性を見誤ることもあります。「経営戦略と連動した人材戦略」をいかに策定・実現するか、また企業価値向上につながっているかを検証していくことが重要です。
本稿は、企業価値向上に資する「人的資本経営」の実践ステップ、経営戦略と連動した人材戦略のポイント、企業価値へのインパクトの分析方法について解説します。
なお、本文中の意見に関する部分については、筆者の私見であることをあらかじめお断りいたします。

POINT 1

人的資本経営の実践ステップは、「人的資本経営に関する状況把握」、「人的資本方針策定(人材戦略策定)」、「人事施策/KPI設定」、「人事施策の実践」と同時に「人的資本の情報開示」、「施策状況・KPIモニタリング」であるが、それらを支えるための「基盤(組織体制、システム等のインフラ)整備」も重要である。

POINT 2

企業価値向上に資する人的資本経営を実現するためには、いかに経営戦略と連動した人材戦略を立案できるかが鍵となる。

POINT 3

人材育成や多様性の推進、働き方改革などの人的資本経営の施策が、自社の企業価値に与えるインパクトを分析・検証することにより、人事施策に対するメリハリのある投資が可能となる。

I 人的資本経営をどのように実践すべきか

1.人的資本経営の実践ステップ
2020年9月に経済産業省が「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書~人材版伊藤レポート~」1( 以下、「人材版伊藤レポート」という)を公表したのに続き、2022年6月には金融庁の金融審議会が「ディスクロージャーワーキング・グループ報告」2を公表しました。これら報告書では、人材育成方針や男女間賃金格差などを有価証券報告書に記載することを提言しています。また、同年8月には、内閣官房の非財務情報可視化研究会が「人的資本可視化指針」3を公表するなど、日本における人的資本経営の実践や開示に関する動きが加速しています。
そこで、最初に人的資本経営をどのようなステップで検討し、実践していくかをみていきます。
人的資本経営を実践するステップは、(1)「人的資本経営に関する状況把握」(2)「人的資本方針策定(人材戦略策定)」(3)「人事施策/KPI設定」(4)「人事施策の実践」と同時に(5)「人的資本の情報開示」(6)「施策状況/KPIモニタリング」の6段階です。また、それらを支えるための「基盤(組織体制、システム等のインフラ)整備」も重要となります(図表1参照)。

【図表1:人的資本経営の実践ステップ】

企業価値向上に資する「人的資本経営」とは_図表1

出典:KPMGコンサルティング作成

(1)人的資本経営に関する状況把握
まずはじめに、自社の人的資本経営の現在地を把握します。経営戦略と人材戦略が連動しているか、経営計画に人材戦略が明記されているか、KPI(重要業績評価指標)を設定しているか、その管理はどうなっているのかなどを把握して、課題を確認します。

(2)人的資本方針策定(人材戦略策定)
自社の状況を把握したうえで、今後の方針を策定していきます。このステップでは、人材戦略が未策定や不十分な場合の見直しが特に重要となります。そして、人材戦略を立案するためには、経営戦略を実現するために必要な人材の要件(スキル・能力・経験等)を検討することからスタートします。

(3)人事施策/人事KPI設定
人材戦略策定後は、人材戦略から導き出された人事施策、たとえばデジタル人材の採用・育成、エンゲージメント向上施策などを検討します。
さらに、人事施策を実現するためのKPI、たとえばデジタル人材の人数やデジタル研修時間、エンゲージメントスコアなどを設定していきます。

(4)人事施策の実践
(3)で設定した人事施策を実践します。デジタル人材、次世代経営者育成などは中長期的な取組みであり、効果がすぐに現れないこともあります。

(5)人的資本の情報開示
統合報告書やサステナビリティレポート、人的資本レポートなどに人的資本の情報開示を行います。本稿では詳細を割愛しますが、開示項目は、(2)~(4)の状況を踏まえた独自性のある開示項目と、複数の基準やガイドラインで求められている比較可能な開示項目から検討します。

(6)施策状況/KPIモニタリング
人事施策を実施した途中経過やKPIの状況などを定期的にモニタリングします。このステップでは、モニタリングした結果を人材戦略や人事施策の見直しに活かしていくサイクルを回していくことが重要となります。
たとえば、女性管理職比率や人材開発費用などのKPIは年に1回程度のモニタリングとなりますが、パルスサーベイの結果や離職状況などは半年、場合により四半期ごとにモニタリングします。それにより、早期に人事施策に反映することが可能となります。

2.人的資本経営を実現するための基盤整備
人的資本経営をスムーズに実践するためには、事前準備を行う必要があります。主に体制、プロセス、人的資本情報やKPI を入力・管理するためのタレントマネジメントシステムなどのシステム構築や改修、データ収集や管理に関するガバナンス、集まったデータを分析して人材戦略や人事施策に活かすHRデータアナリティクスなどです。
人材版伊藤レポートにも記載があるように、人的資本経営を実践するうえでは、これまで以上に経営陣の関与や取締役会の監督が求められます。特に、CHRO(最高人事責任者:Chief Human Resource Officer)のイニシアチブで人材戦略を作成し、他の経営陣(CEOやCFO等)と連携して人材戦略を実行していくことが重要です。
また、人事施策やKPIの実行および実績データなどを入力する実行者やプロセスも決めておく必要があります。人的資本経営の実行者は、人事部門以外にも事業部門の管理職が担うことも多くあります。事業部門の管理職が担う例としては、エンゲージメント向上に向けての上司のリーダーシップや、コミュニケーションなどが直接的に影響する場合などが挙げられます。

Ⅱ 経営戦略と人材戦略の連動

1.人材戦略立案は人的資本経営の第一歩
(1)人材戦略の重要性

人材版伊藤レポートにおいて、「持続的な企業価値の向上を実現するためには、ビジネスモデル、経営戦略と人材戦略が連動していることが不可欠である」とされています。しかしながら、同レポートでは「企業や個人を取り巻く変革のスピードが増すなかで、目指すべきビジネスモデルや経営戦略と、足下の人材及び人材戦略のギャップが大きくなってきている」とも指摘しており、人材戦略が未策定であったり、機能していないケースが多いことが窺えます。
「経営戦略と人材戦略の連動」は、これまでも「戦略人事」や「人事中計」など言葉を変えながらも重要性が問われてきました。しかしながら、人材戦略を策定・実践していない企業や経営戦略と連動していない人事施策を実施している企業が多く見受けられました。
では、どのようにして経営戦略と人材戦略を連動させたらよいのでしょうか。連動させる1つの方法として「人材ポートフォリオ」が挙げられます。

(2)人材ポートフォリオ策定
事業のあり方を見直したり、事業ポートフォリオの組換えを行うと、求められる組織や人材の能力やスキル、人数などを変更しなければならないことがあります。そのような場合には、現状と将来の人材ポートフォリオを策定し、そのギャップを分析し、今後やるべき人材マネジメントの方向性を検討します。具体的には、現状の人材の質(能力・スキル・専門性等)および量(人数)と、将来の事業ポートフォリオ組換え後に求められる人材の質と量を可視化することからスタートします(図表2参照)。

【図表2:人材ポートフォリオのGAP分析イメージ】

企業価値向上に資する「人的資本経営」とは_図表2

出典:KPMGコンサルティング作成

ここでのポイントは、将来の事業組換えもしくは現事業におけるビジネスモデルの変更に伴い、どのようなスキルや専門性を持つ人材像および人数が必要となるかを明確化することです。たとえば、事業のあり方の見直しによりデジタルを活用した事業への変容および事業拡大を行うのであれば、デジタルの専門性を持つ職種(DX推進者、データサイエンティスト、AI技術者等)において必要となる人数を把握し、現在のスキル等や人数との質量のギャップを分析します。
把握できたギャップを埋める手段としては、採用や既存事業の従業員をリスキル(リスキリング)しての配置転換などが考えられます。また、労働市場において需要が高い職種の場合は、既存従業員のリテンションや評価、報酬などの人事制度の見直しも必要となります。デジタル人材のような専門性を持つ従業員を外部採用、あるいはリテンションする際は、特定職種向けに「ジョブ型人事制度」を導入することも考えられます。
人材ポートフォリオのギャップ分析を踏まえたうえで課題を抽出し、採用、育成、配置、代謝など、今後の人材マネジメントの方向性を整理したものが人材戦略となります。

(3)サステナブル人事
昨今、SDGs(持続可能な開発目標)やESG(環境・社会・ガバナンス)を踏まえたサスナビリティ経営が謳われています。従業員の健康やWell-Being(幸福)、ダイバーシティ、高齢化への対応などの人事方針や施策は「サステナブル人事」と言われています。サステナブル人事とは、企業が目指す目標を短期的な利益だけに限定せずに、長期的に企業が発展するために従業員のみならず、さまざまなステークホルダーに影響を与える人事のあり方です。
サステナブル人事も人的資本経営を実践する要素の1つです。企業によっては直接的に経営戦略と連動していないケースも見受けられるものの、持続的な企業の成長に影響すると考えられることから、人材戦略に包含されています。

Ⅲ 人的資本施策と財務パフォーマンスの連動

1.人的資本施策の業績評価 マネジメントへの組込み
前項で経営戦略と連動した人材戦略の必要性について解説しましたが、人材戦略を確実に実行し、目標を達成するためには、具体的な施策およびその進捗を測定できるKPIへのブレイクダウン、さらにはそのKPIの定期的なモニタリング・評価といったPDCAサイクルを実行するための「業績評価マネジメント」が重要となります(図表3参照)。

【図表3:人的資本施策の業績評価マネジメント全体像】

企業価値向上に資する「人的資本経営」とは_図表3

出典:内閣官房非財務情報可視化研究会 人的資本可視化指針(案)を基にKPMGコンサルティング作成

これまで、日本企業の多くは、主に財務KPIに主眼を置いた業績管理のPDCAサイクルは実行していました。しかしながら、人的資本施策については中期経営計画等で人材戦略を掲げ、全社の人的資本KPIを設定しているケースはあるものの、当該KPIを人事部や各事業部へ落とし込み、モニタリングや評価を行っているケースはあまり見受けられません。

2.人的資本施策のKPI設定
人的資本施策のKPI設定の手法としては、「(1)全社経営指標からツリー分解していく」、「(2)戦略や全社共通課題から指標化する」、「(3)ミッションベースで指標化する」などが考えられますが、ここでは最も一般的かつわかりやすい(1)全社経営指標からツリー分解していく方法を紹介します。
(1)は、全社目標に対して構成要素を分解し、戦略や施策の単位でKPIを設定する方法で、全社レベルのKPIと各事業部門/機能部門で設定されるKPIとの関係性が明確化されるメリットがあります。ここでのポイントは、戦略や施策に紐付く人的資本施策を明確にし、人的資本KPIに落とし込んでいくこと、および自社の重要課題や人材戦略を踏まえ重要性の高い施策やKPIに絞り込んでいくことの2つです。

3.人的資本施策を財務パフォーマンスと連動させる
人的資本施策の業績評価マネジメントを有効に機能させ、かつ投資家に対しても説得力を持たせるためには、自社にとって重要性の高い人的資本施策やKPIを特定し、それが財務パフォーマンス、ひいては企業価値向上にどのようにつながっているかを説明する必要があります。
財務パフォーマンスとのつながりを検証するためには、人件費や社員研修投資額、女性管理職比率などの人的資本KPIと売上高、営業利益、PBR(株価純資産倍率)などの財務KPIとの相関関係を、重回帰分析(複数の説明変数を用いる分析手法)などの統計的手法を用いて求めます。財務KPIとの相関関係の強弱によって、自社にとって重要な人的資本施策を特定し、メリハリのある人的投資を実行することができます。さらに、当該人的資本施策が単なる「費用」ではなく、将来的な価値を生む「投資」としてみなすこともできます。そうすれば、将来の自社の売上高や営業利益にどのくらいのプラス効果があるかについても説明できるようになります。
国内外の先進企業では、当該手法を用いて人的資本施策を投資家へ開示している事例も出てきました。2000年代初頭、先進的な経営管理手法としてバランススコアカードが注目され、「人材」も1つの着眼点として挙げられましたが、現在に至るまでに十分に定着した事例は一部に留まっています。その要因の1つは、財務パフォーマンスとのつながりを十分に説明できなかったことだと考えられます。
人的資本の情報開示は、早ければ2023年3月期の有価証券報告書から義務付けられるとみられています。有価証券報告書で開示するからには、投資家などのステークホルダーに対して自社の人的資本施策がどのように企業価値向上につながっているのかを情報として提供する必要があることから、今後に期待されます。

Ⅳ さいごに

人的資本経営および開示に関する要請が高まりをみせていますが、その出発点は経営戦略と連動した人材戦略をどのようにして立案・実行していくかです。また、企業は人的資本が財務パフォーマンス、ひいては企業価値向上にどのようにつながっているかを説明する必要があります。
現行の会計基準では、個別に識別可能な無形資産を数値的に認識・測定するように規定されていません。そのため、人的資本は非財務諸表の情報として発信することになりますが、どのように発信していくかは、何らかの工夫が必要となるでしょう。
こうした状況も踏まえ、人的資本による企業価値向上については、机上の論理に陥ることなく、企業側の情報・仕組みの整備が今後も求められます。

1 経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書 ~ 人材版伊藤レポート~ 」(2020年9月)
2 金融審議会「ディスクロージャーワーキング・グループ」報告の公表について
3 内閣府「人的資本可視化指針」

執筆者

KPMGコンサルティング
アソシエイトパートナー 飯干 悟
アソシエイトパートナー 衣笠 修一

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