最近、AI(人工知能)をはじめとするデータサイエンスが社会に浸透し、画像解析や自然言語処理などの分野で活用が進んでいます。AIは大量のデータに対する学習を通じて、人間の熟練者と同等、時には熟練者でも思いつかないような驚きのアイデアを提供してくれます。画像や自然言語に対する高度な分析を通じて、非熟練者でも熟練者並みかそれ以上の判断を下せるようになるという点で、AIは人間の五感や脳を拡張する存在と考えられるでしょう。
一方で、社会や企業の課題として制度設計に関わる課題も存在します。このような課題に対しては、数理的アプローチを活用することで解決策を導くことができます。

たとえば、企業の人事制度では、事業戦略をはじめ、社員の経験や適性、各部署の業務内容や必要としている能力などさまざまな要素を考慮して人材配置や社員のキャリアサポートを進めていく必要があります。企業の成長と社員のキャリアを通じた自己実現を達成するためには、これらの要素を反映した人材配置の「決め方」が非常に重要となります。
人材配置の決定方法に対する透明性を確保することや、社員や考慮すべき要素が多くなった際に人事担当者に過度な負担をかけずに適切な人員配置を進めるうえで、数理的アプローチを用いることは大いに助けになり得るでしょう。

本稿では、制度設計に対する数理的アプローチとして、ゲーム理論とその関連分野を紹介し、制度設計を数理で解くことの重要性について考えます。
2回連載の前編となる本稿では、ゲーム理論の代表的な例である囚人のジレンマを紹介し、制度を数理的に考えることの利点を解説します。後編では、企業の人事制度を例にマッチング理論という分野の受入保留アルゴリズムを紹介し、数理的な根拠に基づく制度設計の重要性について解説します。

制度を数理的に考えることの重要性:囚人のジレンマを例に

ゲーム理論では、身の回りの出来事を「ゲーム」として捉え数理的に分析します。「ゲーム」という言葉がついていますが、分析対象はトランプカードや将棋などのいわゆるゲームにとどまりません。自分の行動の結果が、他者の行動にも影響を受ける状況(これをゲーム的状況と呼びます)を数理的なモデルで表現し、分析します。
ゲーム理論に関連した話題で、有名な囚人のジレンマを例に考察を進めます。囚人のジレンマの詳細については、本稿末尾の「注1:囚人のジレンマについて」をご確認ください。

囚人のジレンマは、ある事件で逮捕された被疑者2人が、検察官から司法取引を提案され罪状について黙秘か自白を選択する状況です。被疑者は自分の刑が短くなるように行動を選択した結果、2人とも罪を自白します。
この囚人のジレンマゲームでは黙秘を協調、自白を裏切りと言い換えて、お互い協調した方が得られる利益が多いにもかかわらず、自分の利益を追求しより少ない利益を得る結果になってしまうジレンマとして紹介されることが一般的です。たとえば、企業間の過度な価格競争や国家間の軍縮などが具体的な例として挙げられます。今回は、検察官が被疑者に尋問している状況に焦点をあてて、考察を進めていきたいと思います。

被疑者目線では、確かに望ましくない結果になっていると考えられます。しかし、逆の視点すなわち検察官や被害者、社会の目線から見てみると別の考え方ができるでしょう。
被疑者が罪を自白した結果、捜査を進展させることができます。一方、被疑者が2人とも黙秘した場合は、事件の真相究明が滞ってしまいます。
被疑者に事件の捜査に協力させることで、社会的に望ましい結果を引き出しているのです。

そして、この結果をもたらす最も重要な要素は、検察官が交渉の際に設定する、刑の重さです。
(具体例を「注2:被疑者が自白を選択しない可能性のあるゲームの設定」に記載しています)
検察官が司法取引で提案する刑の重さが適切でないと、被疑者が2人とも黙秘する可能性が残ります。この場合、事件は迷宮入りとなってしまう可能性が高いでしょう。
囚人のジレンマで検察官は、以下の2つのポイントを押さえることで、確実に自白を得られるように交渉をリードしているのです。

  • 自白することによって、罪を減刑する
  • 捜査に非協力的な被疑者には、ペナルティを課す

日本では、この囚人のジレンマの構造に類似する例として、課徴金減免制度(リニエンシー制度)があります。課徴金減免制度の詳細については、公正取引委員会のウェブサイトを参照ください。カルテルや入札談合に関与した事業者が、違反内容を公正取引委員会に報告し、事件の真相究明に協力することで課徴金を減免する制度です。

このように、制度をモデル化して考えることで、制度の利用者が取りうる行動やその結果の予測や分析が可能になります。モデルを使って数理的に分析することで、課題の論点や課題を引き起こしている原因の仮説について客観的に議論し、有効な解決策を導くことができます。
後編では、より身近な企業の人事制度を例にマッチング理論という分野の受入保留アルゴリズムを紹介します。

注1:囚人のジレンマについて

囚人のジレンマゲームを紹介します。
共謀して罪を犯した嫌疑が掛けられている被疑者が2人います。民家への空き巣が疑われていますが、十分な証拠が揃っていない状況です。一方で、2人とも別件の軽犯罪でも逮捕されており、こちらの捜査は完了しています。
ここで、取り調べを行っている検察官が被疑者に次のような取引を持ち掛けます。

「空き巣について、司法取引しましょう。逮捕されている2人の被疑者の言動によって、裁判で求刑する年数を次のようにします。」

  • 2人とも空き巣について黙秘を続けた場合は、軽犯罪のみで立件され、懲役3年が求刑される。
  • 被疑者の片方が空き巣について自白し捜査に協力した場合は、自白した被疑者は空き巣の罪には問わず、軽犯罪についても減刑して懲役1年を求刑する。自白しなかった被疑者は操作に非協力的であるとして、軽犯罪と合わせて懲役7年を求刑する。
  • 2人とも自白した場合はそれぞれ懲役5年が求刑する。


数理的な表現方法として、戦略形ゲームという手法があります。
戦略形ゲームでは、ゲーム的状況を以下の3つの要素で表現します。

  1. プレイヤーと呼ばれる、ゲームの参加者
  2. プレイヤーの取りうる戦略
  3. プレイヤーが取った戦略それぞれに対する結果


囚人のジレンマゲームを戦略形ゲームに当てはめると、以下となります。

  • プレイヤーは、2人の被疑者
  • 戦略は、黙秘または自白の選択
  • 結果は、それぞれの被疑者に対する刑の長さ(2人とも黙秘した場合は懲役3年ずつなど)


2人の被疑者は別々の部屋で取り調べを受けており、お互いの言動について知ることはできません。お互い空き巣の罪について黙秘と自白の2つの選択肢が与えられており、もう1人の被疑者の行動によって、求刑が変わります。
このような状況で、被疑者はどのような行動をとるでしょうか。
ここから、2人の被疑者を被疑者A、被疑者Bと呼ぶことにします。
被疑者はお互いどのように証言するか分からないため、相手の被疑者の行動を予測しながら、黙秘か自白か選択するでしょう。

被疑者Aの行動について考えてみます。
  • 被疑者Bが黙秘をしている場合、自分(被疑者A)は自白すると刑が軽くなる(黙秘した場合は懲役3年、自白した場合は懲役1年)ため、自白を選択します。
  • 被疑者Bが自白している場合、自分も自白すると刑が軽くなる(黙秘した場合は懲役7年、自白した場合は懲役5年)自白を選択します。
ビジネス課題と経済学前編 図表1

つまり、被疑者Aは、被疑者Bの行動によらず、自白を選択することが最適な行動となります。
同様のことが、被疑者Bについても当てはまります。
2人の被疑者はこのような考えのもと、自白を選択します。
被疑者にとって、お互い黙秘した方が求刑される罰の重さは軽くなるにもかかわらず、自分の刑が軽くなるよう合理的に考えた結果、自白を選択しより重い罰を求刑されることになるのです。
※文献によってストーリーや刑の年数が異なる場合があります。

注2:被疑者が自白を選択しない可能性のあるゲームの設定

「囚人のジレンマについて」で例示したゲームの構造を基に考えます。
たとえば、片方の被疑者が自白しもう片方の被疑者が黙秘した場合の刑の長さについて、自白した被疑者に懲役5年、黙秘した被疑者に懲役7年求刑するとします。
自白したことによる減刑がないパターンです。それ以外の設定は先ほどの例と同じ場合、被疑者の行動はどうなるでしょうか。

先ほどと同様に、被疑者Aの行動について考えます。
  • 被疑者Bが黙秘している場合、自分(被疑者A)も黙秘すると刑が軽くなる(黙秘した場合は懲役3年、自白した場合は懲役5年)ため、黙秘を選択します。自白による減刑を受けられないため、被疑者は黙秘を選択するのです。
  • 被疑者Bが自白している場合は、自分も自白すると刑が軽くなる(黙秘した場合は懲役7年、自白した場合は懲役5年)ため、自白を選択します。
ビジネス課題と経済学前編 図表2

被疑者Bの行動によって、被疑者Aにとって得になる選択肢が変わります。
同様のことが、被疑者Bについても当てはまります。
2人の被疑者はそれぞれ相手が黙秘しているのか、自白しているのかわかりません。そのため、相手が黙秘していると考える被疑者は黙秘を選択し、相手が自白していると考える被疑者は自白を選択します。

執筆者

KPMGコンサルティング
シニアコンサルタント
横山 春樹

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