中長期的な企業価値の実現に向けた人的資本開示への取組み

市場における企業価値決定に際して、無形資産の及ぼす影響が明らかになっており、無形資産の構成要素の1つとして改めて「人的資本」が注目されています。

市場における企業価値決定に際して、無形資産の及ぼす影響が明らかになっており、無形資産の構成要素の1つとして改めて「人的資本」が注目されています。

ESG要素については、これまで、気候変動リスクへの対応を含め、全体として「E」(地球環境)が注目されていました。しかし、市場価値の決定に有形資産よりも無形資産の価値がより大きな影響を及ぼす実態が明らかになっている中で、「S」(社会)の観点も踏まえた、無形資産の構成要素の1つとして改めて「人的資本」が注目されるようになっています。

「人的資本」と聞いて、立場によって思い浮かべるものはそれぞれ異なるかもしれません。例えば、これまでの資本に関する概念を拡張し、マルチキャピタルを取り扱うことを特徴の1つとする国際統合報告評議会(IIRC)の「国際統合報告フレームワーク」では、人々の能力、経験、イノベーションへの意欲を指すとしています。

企業には、「人的資本」を有効に活用する社会的責任があります。持続的な価値向上や、社会的厚生向上の希求、組織におけるコーポレートガバナンスの実効性向上等の観点から、人的資本が、改めて注目されている理由として、主として以下の3つがあげられます。

  1. 人的資本に対する投資家からの情報開示ニーズの高まり
  2. 海外規制当局による人的資本の開示拡充を巡る議論の進展
  3. 日本における2021年6月のコーポレートガバナンス・コードの改訂

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投資家からの情報開示ニーズ

企業にとって不可欠な資本である「ヒト・モノ・カネ」のうち、これまではモノ・カネを中心に報告されてきました。産業構造の変化により、製造業中心から情報技術及びサービス業へ遷移する中で、企業価値の源泉がヒトを含む無形資産へと変化しつつあります。

資産運用世界最大手のBlackRockのCEO Larry Fink氏の2021年の「Letter to CEOs」の中でも長期的な人材戦略について網羅的な開示を要請しており、人的資本について、今後の投資家と企業との対話の中でより一層重視されていくものと考えられます。

海外における「人的資本の情報開示」制度動向

人的資本について、海外では米国証券取引委員会(SEC)が2020年8月に上場企業の人的資本の開示に関する「Regulation S-K」を改訂しました。当該改訂により上場企業は従業員数に加えて、人的資本についての情報開示が必要となっています。人的資本の開示内容の詳細は規定されていませんが、事業者が事業を運営するうえで重視している人的資本に関する取組みや目標についての説明を求めています。

また、欧州においても現状の非財務情報開示指令(NFRD:Non-Financial Reporting Directive 2014/95/EU)に代わる企業のサステナビリティ報告に関する指令の提案(Corporate Sustainability-information Reporting Directives「CSRD(案)」)においても人的資本の開示情報の拡充が求められています。

  NFRD CSRD(案)で追加に報告を要求される事項
報告事項
  • 環境保護
  • 社会的責任と従業員雇用労働環境
  • 人権の尊重
  • 贈収賄防止
  • 企業取締役会の多様性(年齢・性別・教育や職務経験において)
  • ダブル・マテリアリティ(企業に影響を及ぼすサステナビリティ関連リスク(気候変動関連を含む)および社会及び環境に対する企業のインパクト)を考慮にいれた報告
  • ステークホルダーにとってマテリアルな項目の決定プロセス
  • 将来情報(ターゲットやその進捗度など)の報告
  • インタンジブルズ(社会的・人的・知的資本)に関する情報開示
  • (金融業者向けの)サステナビリティ開示規則 (SFDR)及びEUタクソノミー規制に沿った報告

出典:KPMG Insights「欧州委員会が企業のサステナビリティ報告に関する指令(案)を公表」より

日本における「人的資本の情報開示」制度動向

人的資本について、日本では、有価証券報告書等の制度開示において個別の要求はありませんが、2021年6月改定のコーポレートガバナンス・コードの補充原則3-1(3)において、「人的資本への投資について自社の経営戦略・経営課題との整合性を意識しつつ分かりやすく具体的に情報を開示・提供すべき」とされています。

2021年9月より開始された金融審議会ディスクロジャーワーキンググループにおいても、人的資本への投資に関する開示について議論が開始されています。また、経済産業省が主体となり、2020年9月に「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書~人材版伊藤レポート~」が公表され、当該レポートを踏まえ2021年7月以降「人的資本経営の実現に向けた検討会」において人的資本経営のありかたについて検討が重ねられています。

最後に

こうした点を踏まえると、自社の中長期的な経営戦略の実現に向けて自社としてどのような人材が必要か、また当該人材の確保に向けてどのような戦略を講じているか等に関する情報の「見える化」が要請されていると考えられます。従来は費用化の対象と考えられがちであった「ヒトに対する投資」を、中長期的な企業価値の実現につながる施策として報告することが必要になってきています。

新型コロナウイルス感染症が拡大する中、従業員の健康や安全に関する企業の取組みに対する注目が高まりました。また、最近のESG要素に関する情報開示に対する関心の高まりを踏まえ、人的資本に関する取組みは一層注目度を増しています。こうした中、取締役会において自社の人的資本に関する取組みについて十分な議論をするほか、社内外のステークホルダーとの対話を通じて、取組みの継続的な改善を続けていくことが一層求められていくものと考えられます。

執筆者

KPMG サステナブルバリュー・ジャパン
有限責任 あずさ監査法人
シニアマネジャー 井上 敬介